
『戦争と平和』は最近また衛星放送されていましたが、1812年のナポレオンのロシア侵入を背景とした映画です。トルストイのロシア語の原作を見ながら映画を見ていると、ほとんど忠実にたどっています。しかも、莫大な金をかけてリアリズムを追求しています。
これは戦史研究などをベースにしていますが、みんなが立って戦うという戦い方が、戦争の終わりごろになると匍匐前進など泥まみれの近代戦に変わってくるのです。初めはそれこそ軍楽隊の場面で、バグラチオンというロシアの将軍がフランス軍の行進をブラボーなどと言って、敵を褒めている場面がありましたが、そういうことは戦いの後半からぐちゃぐちゃになってしまいます。つまり、これはある意味で戦う専門家の、騎士の戦いからだんだん総力戦になってくる近代の戦争へと、1つの転換が見事に描かれているものです。このように膨大な金をかけて、つまり採算を度外視してリアリズムを追求したのです。これはソ連だから、ソ連軍の協力があったからできたことで、今はとてもできません。
もう1つは『アンナ・カレーニナ』ですが、これは7回映画化されています。外国でも映画化されており、戦後まもない1948年に作られた、ビビアン・リー主演のものが有名です。ごく最近では1997年にソフィー・マルソー主演で映画化されていますが、これが7度目です。ロシアでは5回ぐらい映画化されており、一番有名なのはタチアナ・サモイロワがアンナを演じている1967年のものです。僕はこれを学生時代に見たときにはくだらない映画だと思ったのですが、この前三百人劇場でもう一度見たらなかなかすごいと思いました。妻に浮気される男カレーニンの心理が非常にうまく描かれていたからです。そういうことは若いときにはわからず、やはり年をとってからわかるものです。
『アンナ・カレーニナ』という文学作品の映画化ですが、セリフまで原作に忠実なのです。1つの例ですが、この時代の映画では最初にパッと本が出てきて、「幸福な家庭はすべて一様だが、不幸せな家庭はそれぞれに不幸せである」という有名な一節がロシア語で朗読されるのです。本を読んでいき、そして映像に入っていくというところまで、原作に忠実であることを意識しているわけです。これはもちろん1つのポーズという点もあります。
先程言ったリアリズムの追求の例をもう1つ挙げますと、『罪と罰』があります。これは一工夫してあり、映像としてのインパクトを先に考えて、入れかえがあるのです。ドストエフスキイの『罪と罰』では、ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺そうとしているが、実行に至るまで非常に悩み、逮捕された夢などを見ているというところから始まりますが、映画では彼がソーニャの父、管理の職を失った貧乏なマルメラードフと出会って、居酒屋で飲む場面から始まります。正式に始まるプロローグのようになっている場面では、重要なテーマが凝集されています。マルメラードフが神の許しということを言い、売春婦である娘のソーニャが最後には罪を犯したラスコーリニコフを救うことになるのです。
ドストエフスキイは、神は死んだ、強い者が勝つのだ、人に害悪だけ加えているうじ虫のような老婆は殺してもいいのだと、ある意味ではニヒリストのような思想を『罪と罰』の中でラスコーリニコフに抱かせています。さらに『悪霊』の中では、選ばれた者の支配ということを描いています。社会主義では一部のエリートが支配し、その中で大衆は家畜化する、動物のようになってしまうというようなことを描いているため、ソ連においてはこれを当初は出版もできなかったのです。ましてや映画化もできませんでした。
しかし、これらの作品の世界文学における位置は非常に重要なものです。ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』の中にも、幼女を殺す場面などがありますが、ドストエフスキイの『悪霊』の影響が見られると言われています。日本でも黒澤明が森雅之を使って『白痴』を北海道で作っているように、いろいろな人たちにインパクトを与えています。要するにソ連のイデオロギーとは合わないけれども、ネーションとしてのソ連の国宝的な人物であるということから、ドストエフスキイの作品はある意味で権威づけがなされ、リアルな存在になってくるのです。
ラスコーリニコフはもちろん架空の人物ですが、ソ連時代にレニングラード(現サンクトぺテルブルク)へバスツアーで行くと、ラスコーリニコフが住んでいた部屋というものが現実にあるのです。そんなばかな話はないのですが、ロシア人にとってはそれほど現実化されているのです。ラスコーリニコフが住んでいた部屋として認定され、ちゃんとした観光のスポットになっています。非常に矛盾したことですが、彼の場合は許されていくのです。
ただ、この作品の中では入れかえと省略があります。例えばラスコーリニコフがひざまずいて大地に接吻する場面があり、ドストエフスキイはいわばスラブ派と近く、政治的には土壌主義者、大地主義者とも言われ、ある意味では非常な右翼でした。それを象徴するような場面と、最後にソーニャと暮らすところはカットされています。しかし、ソーニャに罪を告白し、救いを求める場面は描かれています。
また、聖書をソーニャに渡してくれた、金貸しの老婆の妹リザベータもラスコーリニコフに斧で殺されるのですが、神の問題が延々と論じられています。これが作られたのは社会主義、ブレジネフ時代ですが、これは例外的に古典として許されているのです。
ドストエフスキイは『罪と罰』の後の『悪霊』の中で、「神は死んだ、神は全くいない」ということをさらに発展させていき、『カラマーゾフの兄弟』でもそうです。言ってみれば、神が人の姿、イエスというかたちとなってあらわれたのが死んだのだから、人が神にならなければと言います。神人から人神へ、人が神になるというある意味では傲慢な思想を、社会主義などに見出していたのです。ルキノ・ヴィスコンティはそのあたりをヒントにして、『地獄に堕ちた勇者ども』の中にドストエフスキイのモチーフを使っているのではないかと思っています。
要するにドストエフスキイやトルストイの大作は、ソ連がまだ盤石だと思われた時期にはある種の古典として、ロシアでは作品化が可能であったのです。とにかく原作を忠実にあらわすこと以外の要素はできるだけ排除されていたのですが、ソ連崩壊が始まる少し前のペレストロイカ、ゴルバチョフ登場あたりから非常に大胆な作品の読みかえが始まりました。いくつかの古典を持ってきて、現代的な味つけをするというかたちです。