ロシア文学の再解釈と映画化 ―最近の傾向をめぐって― 
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ロシア文学の映画化

 このような中で、大作と言われるロシア文学が映画化されています。ショーロホフの『静かなドン』、トルストイの『戦争と平和』、『復活』、『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキイの『白痴』、『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、チェーホフの『子犬を連れた貴婦人』、トゥルゲーネフの『初恋』、『ルージン』、ゴーゴリの『ヴィー』など、挙げればきりがないほどたくさんの映画が文学を題材として作られていました。
 映画は、リュミエール兄弟によって上映されてからかなり短期間でロシアへ入ってきます。19世紀のロシアはフランスと協調関係にありました。露仏同盟などもあり、シベリア鉄道の建設にもフランスの資本が入っていました。したがって、フランスのものはすぐに導入したのです。ロシア革命が始まった後、プドフキンとかエイゼンシュテインなどのそうそうたる映画人が出てきます。訳し方がなかなか難しいのですが、いわゆるモンタージュ理論があり、モンタージュ写真という言葉で有名なようにモンタージュとは組み合わせることによって生まれる、いろいろな映像を取りそろえて組み合わせていくことです。エイゼンシュテインは全く相反するものを組み合わせる映像の衝突で、そこに弁証法的な効果をねらい、それこそかなりアヴァン=ギャルド(前衛的)な映画の実験を行います。
 しかし、ロシア革命後の前衛芸術の開花は短期間で終わり、スターリンの支配の中で社会主義リアリズムが主流になってくると、エイゼンシュテインなども批判されます。非常に窮屈な、単調な映画作りが主流になっていくのです。そういう中で、いろいろな工夫によって映画が生き延び、映画の伝統が生まれます。
 最近の『シベリアの理髪師』、少し前の『太陽に灼かれて』、マルチェロ・マストロヤンニを使った『黒い瞳』で知られる、今ロシアで一番有名なミハルコフという監督はいわばエリートで、今も大金持ちであり、200年の歴史しかないアメリカをかなり茶化しているというか、軽蔑しているようなところがあります。しかし、アメリカからはお金をしっかり取っているのです。ミハルコフの映画では英語がたくさん使われており、ロシア語が少ないので不自然な感じがします。映画の中では、シベリアのタイガを伐採するために蒸気機関で動く巨大な伐採機をアメリカから入れることで、アメリカと自然破壊を結びつけているのですが、ミハルコフはそのようなトレンドに対しても目配りのきく人なのです。
 ミハルコフのような人はソ連時代から活躍し始めました。NHKの前モスクワ支局長である小林和男さんが言っていたように、テレビではコマーシャルなどを見るとロシアの現状は日本と全く変わらないし、アメリカ映画を盛んに上映しています。ロシアの映画産業も、暴力とセックスが主流になる傾向をみせています。今もロシアの街角では海賊版のビデオがたくさん売られています。ちゃんとした海賊版ならいいのですが、一番おもしろいところで画面の揺れてしまっているコメディー映画のビデオもあり、これは映画館で笑いながら撮った8ミリビデオだという笑い話です。そのようにいろいろなものが日本より安い値段で買え、映画館が斜陽なのです。しかし、ミハルコフなどの映画はロングランを続けています。
 一方、ミハルコフと違ってゲルマンとかソクーロフ、バラバノフ、チュフライ(『誓いの休暇』という有名な映画を作った監督の息子)などの映画は、わりとマニアが好みそうなものです。こういったものがたくさん作られており、日本でも東京の三百人劇場などで「ロシア映画の全貌2001」という映画祭が行われたり、名古屋シネマテークでもソクーロフ特集とか、ゲルマンなどのいろいろな映画が上映されたりしています。
 「おろしゃ会」とは学生のロシア研究サークルですが、その機関誌「おろしゃ会」会報の中では映画について書かれています。平岩君ばかりが書いていますが、彼などはこのような映画をしょっちゅう見に行っている若者の一人で、あの映画はおもしろかったからぜひ見に行ってくださいなどと言っています。つまり、ミハルコフとは対極的に、商業ベースにはあまり乗らない映画監督の作品が、圧倒的とは言えませんが、日本でも若者の支持をじわじわと得ているということです。
 タルコフスキー以来ずっとそうですが、若者たちは退屈なので映画を見ながら時々寝ているのです。しかし、アベックで来ていた若者の話が聞こえてきます。何だかわからなくて、寝てしまったけれども、何だかすごいなと。そういう感性あるいは背伸びした好奇心が若者にとっては大事なのだと僕は思います。タルコフスキーの『惑星ソラリス』などでは私も途中で寝ました。赤坂見附あたりの首都高速を走っている退屈な場面がありますが、パッと目覚めるとまた同じようなシーンがずっと続いているのです。それでもそこに観客をずっと座らせておく力があるということです。この前ソクーロフの『モロク神』を見ましたが、結構たくさんいた若い学生のうち3分の2ぐらいは寝ていました。僕ももちろん寝ました。でも終わってみると、何だかすごいものを見てしまったなという感じなのです。
 セックスと暴力ばかりだと言われますが、セックスと暴力を抜いた映画はほとんどありません。ロシアの文学だってそうです。性の問題とか暴力の問題を取り上げていないものはないのです。それは取り上げ方の問題です。ポルノグラフィーとの違いはそこにあるわけで、性と暴力がいかに大きなモチーフになっているかということは、社会主義リアリズムの時代でも変わらないのです。

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