今までは文学者が映画にどのように歩み寄ったかという話でしたが、今度は映画が文学からどんなものを得ていたかという話です。
映画と文学の共通点として物語を語るという面があるので、映画がフィクションを作り出すようになると、すぐに文学作品が映画化されるようになりました。1つには、物語を作るうえで過去のものを借りる方が簡単だからです。さらに言えば、見世物としての映画がいかに芸術になり得るかということで、その場合一番手っ取り早いものとして、既に芸術作品である文学からその芸術性を借りてくる、文学という芸術の威を借りて映画を芸術たろうとした面があるのです。
リュミエールによる最初の映画上映が1895年でしたが、わずか7年後の1902年には『ロビンソン・クルーソー』とか、19世紀のフランスの代表的な作家ゾラの『居酒屋』が映画になっており、1903年には『ドン=キホーテ』も映画化されています。ミュージカルとして有名なユゴーの『レ・ミゼラブル』などは、1906年以降に17回も映画化されています。また、もともと小説であった『ターザン』はキャラクターとして最初に商品化されたもので、登録商標されて映画やキャラクターグッズが作られたはしりだったようです。
映画は文学の力を借りて芸術化していこうとしましたが、その中で極めて芸術的な大文字の映画作家が、伝統的なヨーロッパの知性や美意識を映画化しようと試みる作家があらわれてきます。それが映画監督ルキノ・ヴィスコンティであると考えます。彼はもともとミラノの大貴族の生まれで、文化的にも意識の高い家庭に育ちましたが、演劇とかオペラの演出を手がけ、やがて映画の方に進出していきます。彼の作品の多くは文学作品に基づいたものです。ジェイムズ・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、ヴェルガの作品に基づいた『揺れる大地』、『夏の嵐』、ドストエフスキー原作の『白夜』、『若者のすべて』、『山猫』、イタリアの詩人レオパルディの一句から構想されている『熊座の淡き星影』、フランスのノーベル賞作家カミュの『異邦人』、トーマス・マンの『ベニスに死す』などがあります。彼の遺作となった『イノセント』も、19世紀末から20世紀初頭のイタリアのデカダンスを代表する作家ダヌンツィオが原作になっています。
ヴィスコンティの代表作とも言える『家族の肖像』には、偽の家族たちが集まって晩餐を取る場面が最後の方にありますが、その中で主人公の教授は、自分の部屋の2階にある間借り人がやってくる足音が聞こえるという話をします。名前は出てきませんが、実はそれもプルーストの小説から一節を引用したものです。また、実際には映画化できなかったのですが、トーマス・マンの最高傑作『魔の山』を映画化するという計画もヴィスコンティは立てていたようです。
ヴィスコンティの最も有名な作品とも言えるのが『ベニスに死す』ですが、これはプルーストと同世代のトーマス・マンが原作になっています。トーマス・マンは1875年に生まれて1955年に亡くなったドイツの作家です。この映画について詳しくお話しします。
ギリシャまでさかのぼってヨーロッパの芸術を考えるうえで、2つの大きな流れがあります。アポロ的な側面とディオニュソス的な側面で、どちらもギリシャ神話の神様たちの名前です。アポロ的側面とは、芸術に調和とか秩序を、理性的な美を求める傾向です。ヨーロッパの美にはこのような傾向がある一方、もう1つのディオニソス的な側面とは全く正反対で、混沌、感情、破壊といった美を求める傾向です。この2つの傾向はありとあらゆる芸術の分野の中に見てとることができます。音楽に関して言えば、アポロ的な音楽とはモーツァルト、ディオニソス的な音楽ならワーグナーになります。もちろん1人の芸術家の中に2つの要素が入りまじっていることも多いのですが、これがヨーロッパの芸術を考えていくうえでの2つのキーワードになるのです。
それと全く並行的なこととして、1900年が映画時代の中心の年になるのですが、この年には極めて重要な書物『夢判断』が出版されています。精神分析の創始者であるオーストラリア人、フロイトが出した本です。映画の誕生とほぼ同じ時期に精神分析が生まれたと言ってもいいのです。精神分析とは、セックスのレベルから芸術のレベルまで、人間のあらゆる精神活動が性によって説明がつくと考えたものです。
精神分析に言わせると、人間の中にはエロスがあるわけです。つまり生を求める、生きることを求める欲望です。もう1つのフロイトが発見したことは非常に画期的であり、議論のあることですが、人間の中には生を求めると同時に死を求める気持ちがあるということです。これをタナトスと名づけますが、人間の精神活動の中には人間の無意識を支配するものとして、生を求める動きと死を求める動きがあるとフロイトは考えたのです。この2つを結びつけることができると思うのですが、調和的な秩序だった生を求める気持ちと混沌たる死を求める気持ちが人間の中にあるということを、映画の時代が発見したと言えるのです。
トーマス・マンの『ベニスに死す』は、アポロ的な美とディオニソス的な美、エロスとタナトスの相克、闘いを描いた作品だと言ってもいいでしょう。この物語にはグスタフ・アッシェンバッハという主人公がいますが、これは小説の中では作家です。ヴィスコンティの映画においては作曲家に変えられています。同じ名前のアッシェンバッハですが、作曲家アッシェンバッハには明白なモデルがおり、これが現実の作曲家グスタフ・マーラーです。マーラーを思わせる主人公は、アポロ的な美を生涯かけて追いかけてきた人間ということになっています。理性的な秩序を持った美を作り出すことに生涯を捧げてきた芸術家アッシェンバッハが、体を悪くして行ったベニスで1つの完璧な美と出会うのです。それが少年タッジオで、自分が生涯かけて作り出そうとしてきた完璧な美が少年の中にいとも簡単にあることに驚き、惑乱して、最後は死んでいくという物語です。これはごく表面的には同性愛の映画という感じになっていますが、決してそれだけではなく、その奥にあるヨーロッパの連綿たるアポロ的・ディオニソス的美の相克を、作品の中で描き込もうとしているのです。
これから1つの場面を紹介します。ベネチアに伝染病が蔓延し始めたので、主人公のアッシェンバッハはベネチア滞在を途中で切り上げて帰ろうとします。アポロ的な人間であろうとする彼は自分の意志でベネチアから逃れようとするのです。ところが、自分の荷物がよそに送られてしまったという全くの偶然によって、立つことができなくなります。自分の意志ではなくて、運命によってもう一度ベネチアへ戻ることを余儀なくされるのです。それだけの場面ですが、そこではまさに2つの美の間の相克が見事に描かれているという気がします。つまり、常にアポロ的な、理性的で秩序的な美を作り上げようとしてきた、そして自分自身の人生もそのように律してきた作者が、ディオニソス的な美にとらわれていく部分であると言えるのです。
食堂で2人が見つめ合って別れますが、彼が船に乗っていった駅では行けないことがわかって戻ってくるという場面は、本当に音楽的な構成であり、すばらしいと思います。一番の頂点で彼は自分がアポロ的なものから解放されて、こちらに身を任せることができるという解放感のほほえみだったのです。その直後に、やがて向こうにある死が、伝染病で倒れる男というかたちで象徴的にあらわされていると思います。
このように極めて成熟した、芸術的な映画作家があらわれてきます。ただ、小説を映画化する場合、傑作を忠実に映画化すれば映画として傑作になるとは必ずしも言えません。例えばヴィスコンティは1967年にカミュの『異邦人』を映画化していますが、まだ生きていたカミュの未亡人が強い権力を発揮したので、とにかく一言一句変えてはならないということにされて、結局ヴィスコンティの唯一の失敗作と言えるような作品になってしまいました。
多くの映画作家たちは、何らかのかたちで映画作家たる自分自身の指紋を作品に残そうとします。原作にはない場面を加えたり、古典的なものを現代に置きかえたりするのです。例えばコクトーによる1943年の『悲恋』は、中世のヨーロッパの伝説であるトリスタンとイゾルデを現代化したものです。また、『肉体の悪魔』という作品では、第1次世界大戦を舞台としたラディゲの原作をもとに、舞台を第2次世界大戦に変えています。イタリアのベルトルッチもかなり文学的な源泉を持つ作家ですが、彼も『革命前夜』という自伝的な作品をスタンダールの『パルムの僧院』から取っています。何らかのかたちで現代性を持ち込む、あるいは全然違う場面を持ち込むことによって、その文学作品とは違うサムシングを加えることによって、映画としての傑作、芸術作品たろうと望むことが多いのです。
その中で1つの極端な例がありますが、ごく最近の1990年に公開された『シラノ・ド・ベルジュラック』です。これは、100年ぐらい前に劇作家エドモン・ロスタンが書いて1897年に初演された、同名の『シラノ・ド・ベルジュラック』がもとになっており、何カ所かのカットはありますが、それをほぼ忠実に、セリフもそのまま映画化したものです。というのは、当時のままの韻文によるセリフなのですが、フランスには1行が12の音からなるアレクサンドランという詩の形があり、それでセリフ全体が書かれたものをそのまま映画化したということです。原作どおりに使われているアレクサンドランは、日本人にとっては七五調とか五七調みたいな感じで、フランス人にとって一番気持ちのいいリズムのようですが、それが一世紀を超えて映画として蘇ったと言ってもいいのです。
『シラノ・ド・ベルジュラック』は19世紀終わりの演劇ですが、舞台となっているのは17世紀で、実在した作家シラノ・ド・ベルジュラックを主人公にしたものです。17世紀はフランスの文化が一応の完成を見た時代で、みんながフランス文化やフランス語に対して誇りを持っていました。その結果、プレシオジテという極端なことが起こりました。つまり、文化というものは一たん完成するとやがて熟し、腐っていくのですが、まさに17世紀のフランス文化の腐った面なのです。美しく立派な言語であるフランス語をとにかく純粋なものにしていこうと、例えば「鏡」などという日常的な言葉は使わずに「美の相談相手」と呼ぶといったことが、この時代に起こってくるのです。
そういうことに取りつかれた女主人公ロクサーヌに恋をした、シラノが主人公です。彼には文才があり、剣術も強くて、大変にいい男なのですが、唯一の欠点は鼻が人並みはずれて大きいということです。自分が非常に醜いということが彼の中にあるのです。美を異常なまでに追求した時代ですから、自分は決してロクサーヌに愛してはもらえないだろうと考えた彼は、教養もなければ洗練もされてもいないような田舎者、しかし本当に美しい青年に自分の気持ちを託します。青年の代わりにシラノが手紙を書いたりセリフを考えたりすることによって、青年を介してシラノがロクサーヌに恋を告白するという物語です。
映画の中で、『ロミオとジュリエット』が下敷きになっていることが明らかな場面がありますが、非常に感動的だと思います。問題は、今の感動は果たして映画的な感動なのか否かということです。つまり、19世紀末のロスタンの演劇が持っている強さなのか、映画の強さなのか。こういった感動が映画的であるのか否かという疑問が、文学を映画に勘案した場合にはつきまとい、映画人の中に常にあるのです。