文学と映画の対話 ―フランス・イタリアの作家作品を中心に 
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「映画的」文学――映画的感性の作家から映画を作る作家へ――

 文学者たちは映画をどのように見てきたかという話に移ります。
 映画という新しいメディアは、まずは見世物として始まりました。リュミエールが作り出したころの映画は1つの見世物にすぎなかったのです。1895年の時代に映画を知っていた人たちは、まさかこれが100年後に自分たちの文学と肩を並べるほどの芸術になるとは、夢にも思わなかったでしょう。実際に、『月世界旅行』などを撮ったフランスの有名なメリエスや、身体障害者のサーカスを描いたカルト映画『フリークス』を撮ったブラウニング等は、もともと彼ら自身が手品師とかサーカスの人間でした。つまり、うさん臭い興行師たちがまず目をつけるような見世物にすぎなかった映画に対しては、最初の時期においては芸術家である大文学者たちは冷ややかな目で見ていたのです。
 ところが、20世紀に入って映画自体が成熟していくにつれて、映画に影響を受けた、映画的な感性を持った作家たちが生まれてきます。フランスでは20世紀の初めに大河小説というジャンルがあり、有名なものとしては『チボー家の人々』とかロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』などがあります。その大河小説の創始者と言える作家ジュール・ロマンの場合、多数の人物を同時に並行的に登場させたり、カメラのクレーン移動みたいな効果のあるような文体を使ったり、映画的な手法を作品の中に取り入れています。つまり、最初は見世物として軽く見ていたのですが、映画の持つメディアとしての力を自分の作品の中に取り入れようという流れが、やがて文学者の中にもあらわれてくるのです。
 この時代を代表する作家、20世紀の文学を代表する作家と言ってもいいのですが、マルセル・プルーストは1871年に生まれて1922年に亡くなっています。つまり19世紀の終わりに生まれて20世紀の初めに読まれた作家ですが、彼の作品自体が19世紀までの伝統的小説を総括しており、20世紀の新しい小説の先駆となったと言われています。それが彼の代表作である『失われた時を求めて』という作品です。この作品は日本でも全10巻の文庫本になっており、プルーストのこの1冊がほかの作家にとっての全作品にあたるような、非常に長いものです。
 彼の作品にはある意味で映画的な感性があります。長回しとかズームイン、ディゾルブ(ある場面がとけて別の場面に変わっていくような手法)など、映画的手法を思い起こさせるような場面があるのです。また、この作品で最も有名な場面には「無意識的記憶」という現象があります。これは、プルーストを読んだことがなくてもフランス人なら必ず知っている話ですが、マドレーヌというお菓子を紅茶に浸して食べたときに、その味の感覚が少年時代の思い出をすべて蘇らせるという有名な場面で、映画のフラッシュ・バックをそのまま思わせるような現象です。
 実は、プルースト自身が映画を見たかどうかということはよくわかっていないのです。彼に関しては書簡などが大量に残っていますが、映画を見に行ったということははっきりしておらず、そういった記述は見られません。ただ、実際に彼が映画を見たか見ないかは別にしても、何かの機会に見た可能性はあるとは思いますが、この時代以降の作家たちにとっては映画的な感性とはもはや動かしがたいものであり、それが意識的であれ無意識的であれ、映画的なものの見方が当たり前になっていくと言えるのです。
 プルーストの作品は映画的要素を多分に持っているために、多くの映画作家たちを引きつけてきました。たくさんの映画作家たちがこの小説を映画化しようと考えたのです。企画段階に終わった作家としては、ルネ・クレマンやヴィスコンティ、ジョセフ・ロージーらがいます。ヴィスコンティに関しては、プルーストを映画にするために書いた未完の脚本が日本で出版されています(筑摩書房)。ジョセフ・ロージーの映画は、演劇でも有名な作家ハロルド・ピンターが脚本で参加していますが、その後はピーター・ブルックなどが考えました。
 実際に作品を完成することができたのはシュレンドルフです。一時はビデオにもなり、現在は手に入りにくい状態ですが、『スワンの恋』というタイトルで、第1巻の中の一章に限って1983年に映画化しています。『失われた時を求めて』は全部で7つのパートから成っており、全体をそのまま映画化することは量的にも難しいので、ヴィスコンティの場合はその第4部を中心に映画化しようと考えたのです。そして、2001年の夏には名古屋でもゴールド劇場で公開されましたが、南米出身で現在パリにいる映画監督ラウル・ルイスが、この作品の最後の巻『見出された時』を中心に映画化しています。これは12月21日からビデオレンタルが始まっており、1月にはDVDも出るようです。
 プルーストの小説について、あらすじを簡単に説明します。主人公が私であり、この長い小説はすべて私が語っている物語なのです。小説家になりたいと、文学者になりたいと考えている少年の私がいるのですが、自分がいったい何を主題にして書いたらいいのかわからず、恋をしたり、社交界に出入りをしたり、同性愛とかサディズムなど、人間の裏面のような世界に入り込んでいったりして題材を求めるのですが、自分が求めるような確固たる題材は結局ないのです。そういう状態が続いて、小説の最後になって初めて気がつきます。取るに足りないと思っていた自分自身の人生をもとにして作品を書けばいいのだと。そこで、私がその小説を書こうというところで物語は終わります。つまり、『失われた時を求めて』という小説では主人公の私の物語が続いていき、最終巻で終わりになりますが、主人公の私が最終的に到達したのがこの小説を書く人なのです。
 ここで物語は一たんぐるっと円環状を成して、語り手の私というものが出てきます。主人公が人生の終わりで、こういった方法で小説を書こう思ったところで小説が終わるのですが、その方法で書いた小説がこの小説であるという構造になっており、主人公の私がいるもう1つ上の層に語り手の私が常にいるのです。語り手の私の特徴とは主人公の私に寄り添うようにして話を続けていくということですが、その私はこの後に何が起こるかを全部知っています。しかも小説の中では全く同じ私、フランス語の「Je(ジュ)」になり、私が私というかたちで語っているのです。
 さらにこの上にはもう1つの層があり、ここには小説家としての私、プルーストがいます。つまり3層構造になっており、その3層ではみんな同じ私という一人称で語っているのです。そこで、今私と言っているのがだれかということで、物語が非常に錯綜してきます。プルーストはこの構造を採用することによって、私の中で100%起こっていることでもいろいろな立場で物語を語ることができる、自由な空間を作り出しました。
 そういう意味で小説としてはおもしろく、これが20世紀小説の出発点と言われる理由なのですが、これを映画にすることは非常に難しいと思います。ラウル・ルイスという監督は、主人公の私と語り手の私はほぼ重なりますが、この2人を別々の役者に演じさせるという構造にしました。2人が同じ画面の中に出てきたりすることによって、プルースト的な世界を映画の中で再現しようとしたのです。
 プルーストの世界はこのような構造を持っているので、シュレンドルフの映画『スワンの恋』では、例えば物語としてここからここまでだったとしても、語り手の私や小説家の私が絶えず顔を出すことによって、あらゆる場面が有機的につながってきます。単純な物語のようにここだけで終わっている物語ではなくて、ここにいる私がさまざまなことを言うのです。シュレンドルフの映画の場合、彼の映画が持っている限界とはこれをすべて単純に映画の中で説明しようとしたことです。セリフで説明したり、画面で説明したりすることによって、プルーストの小説が持っている重層性がなくなってしまい、平板でしかもくどい作品になってしまった面があるのです。
 おそらくそれを避けるために、ラウル・ルイスは別々の役者を使うというかたちを取りました。しかも、小説を読んでいない人にはわからなくても仕方がないと、彼はあるインタビューで言っています。小説を映画化する場合には、原則として読んでいない人間でもわかるということが大前提になっていたので、それはある意味で思い切った立場の取り方であり、ラウル・ルイスはプルーストの世界を再現するためにそこまで犠牲にしたのです。これはおもしろい映画ですが、プルーストを読むことが前提になってしまっているという意味では、大変な映画になりました。
 このように、映画と文学は深いかかわりを持つようになってきます。ある時期から、ジュール・ロマンとかプルースト、モーリアック等の作家たちの文章は極めて映画的な感性を持ってきますが、やがて映画そのものに加わろうとする作家たちが登場してきます。脚本家や監督として、自らが映画製作にかかわろうとしてくるのです。代表的な作家としてはジャン・コクトーがおり、童話の『美女と野獣』とかギリシャ神話の『オルフェ』等々を映画化しています。また、日本ではシャンソン「枯葉」の作詞者として有名な詩人ジャック・プレヴェールは、民衆の中に生きた民衆詩人としてフランスでも人気のある作家ですが、マルセル・カルネという監督と組んで何本も傑作を書いています。1945年の『天井桟敷の人々』が代表的です。
 そして、文学的な映画というよりも、作品そのものにもっと深くかかわっていく作家たちがあらわれてきます。例えばヌーヴォー・ロマンと呼ばれる1950年代後半から出てきた作家たちの一群、マルグリット・デュラスとかロブ=グリエなどの作家たちが、自らメガフォンを取ることによって映画を作ろうとしていくのです。デュラスもロブ=グリエもアラン・レネという監督と組み、デュラスに関しては、広島を舞台にした『ヒロシマモナムール』という原題ですが、『24時間の情事』という映画を撮っています。ロブ=グリエに関しては、この時代のフランス映画の最高傑作とも言える映画『去年マリエンバードで』の脚本を書き、それを映画にしています。やがて2人とも自分で脚本を書き、監督をしていきますが、デュラスには『インディア・ソング』とか『トラック』などがあります。
 このように文学から映画へと活動の場を広げていき、世界的に評価を得た作家としてはイタリアのパゾリーニがいます。パゾリーニはもともと詩人で、彼の出身のフリウリという北イタリアの方言を用いた詩集を出しており、その後はローマなどの都会にいる下層階級の若者を主人公にした小説を書いていましたが、そういった文学者としてよりもむしろ映画監督として世界的には有名になっていきます。彼の映画の多くは文学作品に基づいており、聖書の『マタイ福音書』に基づいた『奇跡の丘』とか、ソポクレスの『オイディプス王』に基づいた『アポロンの地獄』、ギリシャ悲劇の『メディア』、『デカメロン』、『カンタベリー物語』、『アラビアン・ナイト』など、古典を映画化しているのです。『カンタベリー物語』、『アラビアン・ナイト』、『デカメロン』という3作については、生の3部作と言われています。要するに、近現代の資本主義社会が確立する前のもっとプリミティブな、元気のよかったころの人間を描くことによって、現在の人間たちが置かれている状況をあぶり出そうとした作品だったのです。
 彼は1975年にサドの『ソドムの120日』という作品を最後に映画化しています。サドは18世紀のフランスの小説家で、この人の名前からサディズムという言葉が生まれましたが、いわゆるサディズムを文学的にかたちにしたことで歴史に名を残すことになりました。彼の書いた『ソドムの120日』という作品を、パゾリーニは第2次世界大戦中のファシズムに置きかえています。ファシスト支配下のイタリアに移すことによって、サディズム的な世界が現代社会にいかに機能しているか、現代の資本主義社会がいかに抑圧的であって、サディズム的な支配が行われているかということを告発しようとしたのです。
 この映画のせいで、1975年という映画公開の年にパゾリーニは暗殺されてしまいます。原因は正式にはわからなかったことになっていますが、ネオファシストの陰謀によって暗殺されたと十中八九考えられています。今からたかだか25〜26年前に、ある作品を作ったがために殺されるということが起こりました。サルマン・ラシュディというインド系のイギリス人作家が『悪魔の詩』を書いたために、イランのホメイニに死刑宣告を受けたという事件がありましたが、それに関してはアラブ世界の持っている特殊性、前近代性があるとは思います。が、パゾリーニの例からわかるように、20世紀後半の西欧世界でも、ある作品を作ったがために暗殺されるということが起こり得たのです。
 これを考えますと、同じ作品を小説で書いたとしてもこれだけの力は、これだけのインパクトは持ち得なかったと。映画が持っている強い表現力、影響力というものを、パゾリーニの死が象徴的にあらわしていると思うのです。

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