メロドラマ・女性・イデオロギー 
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『ステラ・ダラス』

 『ステラ・ダラス』は1921年にオリーブ・プローティーという大衆女性作家が書いたベストセラー小説をもとにしています。最初の映画化は1925年のサイレントで、ヘンリー・キング監督、クローデット・コルベール主演の『ステラ・ダラス』で、2番目が、今日お話する 1937年のキング・ヴィダー監督による『ステラ・ダラス』です。3番目というのもあって1991年で、ベット・ミドラー主演の『ステラ』という映画です。2回リメークされているので3作ありますが、ステラ・ダラスと言えば1937年の『ステラ・ダラス』だと決まっています。日本でも三益愛子主演で、戦前戦後の2度にわたってリメークされて公開されたと言われています。
 この映画は、メロドラマのサブ・ジャンルである「母ものメロドラマ」(Maternal melodrama)と呼ばれています。女の人はやはりお母さんになるのが偉い、自己犠牲的な母親が女性のあるべき姿なのだと、母性崇拝イデオロギーをはっきり表現したものだと言われています。『ステラ・ダラス』で言えば、母親ステラが娘ローレルの幸福のために自分を犠牲にして、娘を手放してしまうという話なのです。非常に保守反動的なプロットなので、フェミニストたちはこの映画にも冷淡でした。彼らが冷淡だったのは、この映画が母性崇拝イデオロギーを強化する働きをしているからという理由によるのです。
 『ステラ・ダラス』は1980年代の『シネマ・ジャーナル』誌上で論争となり、マルベイやカプランも加わっています。論点になったのは、女性観客が母性崇拝イデオロギーを実現するような母親の自己犠牲の物語、『ステラ・ダラス』をどのように見ているかということでした。アン・カプランはもちろん映画が父権制度の支配下にある以上、観客もテキスト(映画)のイデオロギーに支配されていると主張しました。また、女性観客は、ステラの母としての不適格性に同化し、ステラの欠陥によって娘ローレルを断念せざるを得なかったのは正しい結末であると、彼女の敗北は仕方がないと考えると言ったのです。
 それに対して最初に反論したのがリンダ・ウイリアムスでした。ウイリアムスによれば、女性観客は映画をいろいろな視点で見ており(視点の複数性)、ステラの自己犠牲に同化するわけではないことになります。カプランは女性の生の声が表現されていないと言ったのですが、ウイリアムスは女性の声は確かに表現されていると反論したのです。クリスチャン・グレッドヒルもカプランの一元的な解釈を批判しました。観客はメロドラマに付き物のさまざまな誤解をすべて見る立場に置かれていると考えたからです。映画では、ステラの男友達エドとの関係を夫スティーブンスに批判的に見られて怒られるのですが、それに対しては、女性観客は誤解を知っているのでステラを擁護しながら見ているというのです。このような議論の中で、「メロドラマとは現状維持の中で戦うという矛盾する構図を持っている」というグレッドヒルの指摘は、メロドラマの政治性を考える場合に重要な意味を持っていると考えられます。
 このようにさまざまな見方があるにもかかわらず、論者たちはわりと受動的であるように思えてきます。スティーブンスの短絡性などを告発するのではなく、ステラをかばっているように見ており、父権制度に対する批判力については3人とも消極的ではないかと考えられるのです。
 
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