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テキスト分析『ステラ・ダラス』

 『ステラ・ダラス』を抵抗するテキストとしてもっと積極的に見るとどうなるでしょうか。主演はバーバラ・スタンウィック、プロデュースはサミュエル・ゴールドウインです。ちなみに彼の息子は3作目をプロデュースしています。映画は1937年のニューディール不況下で作られましたが、舞台設定は1919年、マサチューセッツ、ミルハンプトンとなっています。
 紡績工場の出口の場面から始まることは象徴的です。紡績工場はアメリカの産業資本主義と民主主義にとって非常に重要な意味を持っているからです。19世紀半ばにマサチューセッツのローウェルという工場では女工たちが改善運動をしたことで有名です。ステラは女工ではありませんが、紡績工場労働者の家に生まれて、育っています。このように設定されたことによって、制作時のニューディール下において、苦しい不況から脱して新しい生活を求めようとする姿勢、雰囲気が描かれているのです。
 まず、貧しい労働者の家庭が描かれ、次に紳士であるスティーブンスと精いっぱいめかしこんだステラの姿によって、2人の身分違いがはっきり特定されます。ハーバード大学を出た上流階級のスティーブンスが紡績工場の事務で働いていることを新聞の社交欄で知ったステラは、彼に近づこうと思います。ステラ自身は、非常に威張っている父親とボロ雑巾のような母親の姿に失望して、そういう生活から脱出したいと思ってビジネススクール(専門学校)に通っています。ステラは覇気のある、自己決定のできる女性として描かれています。
 初めての出会いの場面は工場の事務室でのランチシーンです。工場労働者であるステラの兄マーティンのもとに弁当を持ってくるという口実で、ステラはやってきます。「マーティンの娘がこんなに美人になって」と社長に言われたステラは兄思いの妹を演出し、家庭的な女であることアピールをするために「私はグラスが曇っているのは我慢できない」と言ってグラスを磨きます。あまり注意して分析している人はいませんが、社長と上流階級のスティーブンス、そして工員の娘であるステラが3人でランチを食べている非常に民主的な場面なのです。最初のショットでは身分違いが出ていると言いましたが、本当に階級差があるのでしょうか。資本主義社会に入りつつあるのですが、まだ途上にあって、町工場などでよくあるように一緒に食事をしているのです。つまり、これは後にスティーブンスが自分の階級を盾にステラを批判することをひっくり返すために用意された、キング・ヴィダーのショットであると考えられます。

 さて、その後2人は結婚をしますが、その前に映画館のデートがあり、上流階級の男女のハッピーエンディングの映画を見て、ステラが「私もあのようになれるように教えて」と言う場面があります。それに対してスティーブンスは、「上流階級なんて窮屈なものだ、今の君のままがいいよ」と言って結婚するのです。
 結婚後ステラはローレルという赤ん坊を生みますが、ステラは活発なので家にばかりいるのが嫌になって、外にダンスパーティーに行くのです。帰宅したステラに、上流階級意識を盾に階級的劣等性を責める場面がありますが、模造のネックレスが階級的劣等性の象徴なのです。「なぜ君は家の中では外しているのに、外に行くときには模造のネックレスをするのか」と彼が言うのですが、私たちも疑問に思います。ステラはこの映画の初めの場面で工場から帰る途中の彼を待っていたときには白っぽい上品そうな服を着ていましたが、これから彼女の服がだんだん派手になっていくのも不思議です。外に行くときだけ模造のネックレスをするということに、1つの不服従、抵抗の表現を見ることができます。普通は地金が出たとしか判断されていませんが、上品な服を着ようと思えば着られるのに、それでも着ないということもまた抵抗の表現とみることができるでしょう。
 もともとスティーブンスには、「使い込みがばれて破産した銀行家の父」という不名誉な過去から逃れるために、ヘレンという上流階級の女性との婚約を解消してこの工場町に来たという事情があります。しかし不名誉な落伍者であるはずの彼は、次第に高い地位についたために自信を回復して、最終的には上流階級意識を盾に彼女を責めるという場面になっていくのです。結局、彼等は別居することになります。
 別居の原因はステラがニューヨーク同行を拒否した結果です。しかし、この拒否もまた、スティーブンスがニューヨーク行きの条件として挙げた「夫への服従」に対する反発と抵抗から発しています。また、原作でもそうですが、ステラは自分の生まれ育った町を捨てたくなかったということも考えられます。
 スティーブンスはステラのところに連絡もしないで突然やってくるので、だらしのないステラの暮らしを見てしまいます。そういうところにかわいい娘を任せておくことが不安で、ステラを母親失格だと考えます。彼はこの後たびたびローレルを連れていこうとするのです。母子家庭であるためステラとローレルは密着した関係となります。また、気さくな性格であるために、友達や自分の兄弟、昔の仲間もステラの家に集まってきます。
 一方、スティーブンスは、昔自分が父親のスキャンダルのために婚約破棄をしたヘレンと再会します。2人の男の子の母親になっていたヘレンは、運よく未亡人になっていました。スティーブンスは娘ローレルのためのクリスマスプレゼントを買おうとして、玩具屋でヘレンと出会います。原作ではセントラルパークで出会うのですが、セントラルパークで乗馬しているときに会うということは不倫くさいので、プロダクション・コードに触れるためにトーンダウンしたのです。
 次はローレルの13歳の誕生日です。これからが、ステラが世間とスティーブンスに代表される父権の権力に罰せられるプロセスとなっていきます。ローレルは母親とは異なり、上品な格好をしています。ステラは娘の服を全部縫ってあげており、母と娘は本当に仲がいいのです。 13歳の誕生日に招待客はだれも来てくれなかったのですが、世間がステラを罰した最初です。上品な娘に下品な母親がいると町の人たちがうわさをしたからです。ローレルはいい学校に入れてもらっており、そこで知り合う友達や先生などが彼女の家に訪ねてきて、ステラの態度に驚く場面もステラを否定するお上品な世間の圧力を表現しています。
 次にスティーブンスがローレルをヘレンの家に連れ出す場面になりますが、彼はローレルにヘレンのようになってほしいと思っているのです。母親のモデルには上流階級で洗練されたヘレンがふさわしいと。ローレルは母親が大好きなのですが、清潔感のあるヘレンにも非常に引かれます。
 次の場面はドレッサーの前でのローレルとステラの会話です。ローレルは「ヘレンは石けんと水だけで肌がとてもきれいだ」と母ステラに語るのですが、ステラは丁度鏡の前で一生懸命化粧をするところです。思春期にあるローレルは清潔感のあるヘレンに引かれますが、もちろん母を愛しています。しかし、毛染めをしようとして顔をしかめているステラが、ローレルのヘレン賛美の言葉に寂しそうな表情を浮かべるのを我々観客は鏡を通じて見ることができます。その気持ちを理解することができます。ローレルもすぐに母を傷つけたことに気がつき、毛染めを手伝うのです。
 年月を経て、クリスマスにスティーブンスとステラは久しぶりの再会をします。メロドラマには偶然と誤解がつきものですが、気さくな友達エドが寂しいだろうとターキーを届けてくるのですが、台所のオーブンに入れようとして入らないという場面があり、そこに突然スティーブンスがやってきます。長い間会っていなかったので非常に懐かしかったステラは、スティーブンスの洋服の好みに譲歩して着替えます。しかし結局、スティーブンスはエドを見てしまい、一方的にローレルをヘレンのもとに連れていきます。私たちはこの場面を見て、もっともだ、ステラが悪いと思うでしょうか。スティーブンスの一方的エゴイズムと父権の行使を見逃すことはあり得ません。この後、スティーブンスはエドとの間を盾に、弁護士を通じて離婚しようとします。ところが、ヘレンと結婚するために、自分とエドとの関係を歪曲して利用しているスティーブンスの卑怯さを見抜いているステラは拒否します。スティーブンスの卑怯さを我々もまた見るのです。
 ステラは世間の視線によって次第に罰せられていく、見られる存在になっていきます。離婚は断ったのですが、ローレルと上流階級の人たちが行く避暑地のホテルでは、彼女というものが否定されていく出来事があります。ホテルの喫茶店でローレルと友達たちが鏡を張った壁に向かってカウンター席に並んでつき、ステラが鏡に写った自分の姿を見られているとも知らずに、彼等の背後に現れる場面です。ステラはクリスマスのときの上品な服を着ればよかったのですが、やはり趣味の悪いゴテゴテした服を着ています。ローレルはここで知り合い、恋に落ちた上流階級の男の子と一緒です。みんながステラの悪口を言っていますが、ローレルには母親のことを言われているとはわかりません。ステラも自分のことを言われているのを知りません。切り返しショットがないので、見るものと見られるものの視線が交わることはなく、鏡に映っている上流階級の若者たちの視線がステラを決定し、意味づけるのです。この後笑い者にされているのが他ならぬ自分の母親だと知ったローレルは突然帰りたいと言います。今までは悪趣味でウオーキングクリスマスツリーなどと言われますが、ここでステラは見られ、判断され、否定され、笑われる存在になります。階級差といっても所詮、上流階級との差は洋服の趣味の違いにしかないとも言える場面です。
 この次が母娘相互の愛の確認場面であるとともに、母親がローレルと別れる決心をする場面です。帰ってくる列車では母娘が寝台車の上下で寝ていますが、みんながまたうわさをしており、母親が聞いているのではないかとローレルは心配をしています。しかし、今や話を聞いてしまったステラは、早く帰りたいとローレルが言った理由を知っているのです。
 別れる決心をした彼女が次にするのは、ヘレンに会いに行くということです。ヘレンの家にはローレルの写真があり、ステラとヘレンの服装のコントラストがわかります。ステラの話をだまって聞いているヘレンは、愛している娘を手放さなければならないステラの真意を知り、深く理解します。最初は離れていた女同士の会話ですが、ステラはだんだんにじり寄ってきて、この後抱き合う場面があり、同じ椅子で話すのです。女同士、母同士の語りがよく出ています。カプランは女の声が不在だと主張しましたが、女同士の声と連帯感が確かに表現されていると言えるでしょう。離婚を決意した後、列車で娘をヘレンのところに行かせるときにはヘレンも引き取っていますが、ローレルは知らないで行くのです。ステラにとってはもうこれが最後かと思っている場面です。
 しかし、ローレルはヘレンから話を聞いて、お母さんとは別れられないと言います。そこでやむなくステラはエドと結婚するというような話をしつらえて、娘に自分を拒否させ、自分から離れていかせるのです。(実は『ステラ・ダラス』は連続ラジオドラマとなって何年も続いたのですが、このような感じで続いていったのだろうと思います)エドは落ちぶれていますが、人間的なのです。汚い音楽だと考えられていたジャズ、セントルイス・ブルースが流れています。そして、ステラはローレルに「Something else beside mother(母であること以外のものが欲しい)」と嘘をいうのです。
 有名な最後のシーンは、カプランはマゾヒスティック(自虐的)な場面だと解釈していますが、ローレルと上流階級の青年との結婚式です。ヘレンはステラがきっと来ると思っているので、自宅の客間で結婚式を挙げるだけでなく、窓のカーテンをすべて開けさせ、ステラに見させようとします。ステラは外の窓越しに娘を見るのです。ステラには回復した、見る者としての視線があります。窓が映画のフレームとよく似ており、映画の画面であるかのようです。映画のようになりたいとステラが願ったハッピーエンディングが娘に実現されることを、映画を思わせるフレームの中で見ています。ステラの表情を見るのは私たち観客です。最後にステラは笑顔になって、マーチのように元気よく歩いています。
 この中で落ちぶれたエド以外は、人間的な感情は全部女性に付与されているということを私たちは感じないわけにいきません。スティーブンスは何一つ悩みも苦しみもしませんが、元気な足取りで歩いていくステラを見ると、犠牲者であるということを超えた存在になっていることを感ずることができます。断固つぶされない、一個の人間の尊厳というものを、私たちに向かってマーチのように歩いてくるステラの表情に見ることができると思います。父権の小ささ、みみっちさを笑っているとさえいえるでしょう。『ステラ・ダラス』は父権イデオロギーに一見同化するような身振りを見せながら、実は抵抗しているテキストと考えることができます。

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