メロドラマ・女性・イデオロギー 
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メロドラマとフェミニズム映像批評

 実はメロドラマ再評価とフェミニズムとは同時期に起こっていました。フェミニズムは今では馴染み深いボキャブラリーになっていますが、70年代以降、文学、歴史、社会学の分野で成果を上げました。
 男性作家が書いた女性像は変ではないか、女はこんなふうに行動するはずがない、女性読者から見ると説得力がないというような批判は、普遍的な人間の真理を描いているはずの名作に対してそれまでは言えなかったのです。しかし、そのような批判がフェミニズム文学批評の登場によってできるようになりました。男性作家は自分に都合のいい女性像しか書いていないのではないかと言うことができるようになったのです。このような異議申し立ては文学のみならず、歴史、社会学でも可能となり、それらの分野では次々に成果を上げましたが、映画ではなかったのです。
 映画はもともと巨大な資本を必要とします。ハリウッド古典映画では女の作家がなく、制作・配給などはすべて男性がするものと考えられていたので、映画とフェミニズムを結ぶ議論がなかったのはやむを得ない面もありました。70年代の半ばになってまずクリスチャン・グレッドヒルが、映画が女のために語ることがあるだろうかと疑問を投げかけました。
 映像批評家であるローラ・マルベイは、後に非常に影響を与えた論文の中で、女性とは「見られるためのもの」で女性自身では意味を持たないのだと主張しました。マルベイによれば、カメラの視点は男性を代表しているために、女性は男性の性的なファンタジーの対象となる。つまり、女性は、男性の快楽のために存在する受動的な目的物にすぎないというのがマルベイの主張でした。
 また、アン・カプランは、男性支配のハリウッドを批判し、ハリウッド映画には最終的に女性の声は否定されているのだと主張し、メロドラマは、所詮、女性の現実逃避のファンタジーなのだと言いました。
 フェミニストたちがメロドラマに冷淡だった理由がわかります。フェミニストたちは女性の主体的な表現を求めていたので、女=見られるものということに対して主体性を認めることはできません。見られるものとは、資本主義経済のもとでは結局は性の商品化につながっていくからです。

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