メロドラマ・女性・イデオロギー 
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<メロドラマ再評価と論争>

 メロドラマ映画とは単なる気晴らしの映画だったのでしょうか。映画のメロドラマも過小評価され続けました。それが再評価されてくるのは70年代を待たなければなりませんでした。70年代以降に、大衆文化とか大衆芸術の価値を積極的に認めようとする動きが出てきます。
 芸術に階級はないと思われるかもしれませんが、例えば純文学と大衆文学とは違い、純文学の方がやはり難しいことが書かれているし、人間の真実を書いているではないかと考えられていました。大衆文学とは読者に迎合した消費的なものであるというわけです。同様に、絵画と写真では絵画の方が優れている、なぜなら、写真はだれでも全自動カメラで写せるからだということになります。そのような階級序列性への疑義が出され、その境界を見直そうとする動きが顕著になったのが70年代以降です。
 最初の試みが、イギリス人学者、ピーター・ブルックスの『メロドラマ的想像力』(1976年)という小説論ですが、バルザックやディケンズなど19世紀の小説をメロドラマ的な想像力として見直そうというものです。これはメロドラマを、フランス革命後の王なき社会での平等的な欲望の実現として位置づけているものです。つまり王様が亡くなった後でみんなが平等だといったときに、プチブルジョワジーと言われる人たちが、みんなが平等ならば平等の欲望を持ってもいいはずだと、同じ願いを持ってもいいはずだとして、そういう願いがバルザックやディケンズなどの作品に、メロドラマという形式に託されて表現されているとブルックスは言っています。
 一般的には「メロドラマ的」というと感情経験の過剰性だとばかにするわけですが、ブルックスによると、メロドラマは社会秩序・支配社会が禁じた、あるいは抑圧したものを、家族関係を通じて中心テーマにしていることになります。社会秩序が禁じ抑圧するものとして、例えば主人と召使いによる身分違いの結婚などがあり、それは階級を維持しようとする社会にとっては都合の悪いものですが、メロドラマでは可能です。では抑圧するものとは何なのか、本当は何が欲しいのかということが問題になってくるわけです。
 ブルックスの議論は文学に限定しており、映画のことは何も言っていませんが、『メロドラマ的想像力』は非常に影響力のあった研究ですので、その後あらゆるメロドラマ映画論にブルックスが最初に引用されることになります。
 映像メロドラマを評価した代表的な研究者がトーマス・エルセッサーです。70年代に、メロドラマとは基本はメロディーにあると主張し、メロドラマ本来の音楽性とドラマ性とのつながりをあらためて強調するとともに、ビンセント・ミネリ、ダグラス・サークという2人の作家を再評価しました。ビンセント・ミネリはミュージカルで有名ですが、ジュディ・ガーランド主演の『若葉の頃』や『巴里のアメリカ人』ではメロドラマの最良の部分がよく出ています。
 メロドラマの絶頂期は40〜50年代で、父と子、母と娘、夫と妻の葛藤がそこに描かれることになります。メロドラマはなぜこんなに長く続いたのかというと、人が社会変化を私的経験、感情的語彙以外で理解することを拒否してきたからだとエルセッサーは言っています。つまり人間とは戦争があろうと何があろうと、最終的には自分の個人的な経験で納得することを選んでいるのではないかというのです。そして個人的な感情や経験がメロドラマに最もはっきり表現されることになります。
 エルセッサーは、40〜50年代の最良のメロドラマでは舞台装置から色彩、人物の身振り、フレームなどに完璧に主題化されていると言い、ミネリ、サークを詳細に分析しています。例えば、メロドラマとは大抵誇張されるわけですが、非常にうれしかったかと思うとまたどん底に落ちるというイメージがあります。そういう個人の経験が、映像でどうやって表現されているかということを「上昇と転落のパターン」という表現を使ってエルセッサーは分析しています。ダグラス・サークならば、階段の上にいる人と下にいる人との関係が上昇/転落のパターンであり、下から走って上っていく身振りが何をあらわすかというときに、感情の両極(悲しみと喜び)の対決、あるいはその変化がこのパターンになって表現されているのだというのです。
 そのような対立する感情の表現は、何かに抑えこまれているときに最大の効果を上げて表現されます。つまり、そのときには抑圧されるものが出てくるはずです。庭師と上流階級の未亡人が結婚しようとするダグラス・サークの映画では、「肉体労働者である庭師なんかと結婚するなど、恥ずかしくて人に言えない」と娘や息子が大反対し、周りの人も反対しますが、そういうところで効果があらわれるということです。庭師と上流階級の未亡人の場合では、身分が高いためにかえって世間体から自由になれない未亡人の方が社会的弱者になってしまうのですが、メロドラマではそのような犠牲者の視点に集中するときに観客が関与してきます。観客は主人公に同化し、感情移入し、抑圧されていた主人公の感情を追体験するわけです。シャーロット・テンプルの墓参りをした多くの人と同じように、追体験することによって自分の感情を回復し、感情的に涙を流すことでその欠乏を埋め合わすということになるかと思います。

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