そのような玩具があったのですが、それらはいずれにしても絵でした。それでもいいのですが、時代としては写真の時代になってくるというわけで、連続した写真を撮れるように工夫をし始める人が出てきました。それがマイブリッジです。
![]() マイブリッジ |
それによって次から次へと連続写真を撮ることができたのですが、これは1877年のことで、結局写真集が出たのは1887年なのです。マイブリッジがいったいどんな連続写真を撮ったのかというと、パラパラというのか、親指映画というのか、非常に単純な動く仕掛けになっていたのです。
さて、今まではあまりにも速すぎて目に見えなかったような運動が、分析できるようになりました。馬はこんな瞬間にこんな格好をしていたのかということがわかるようになったのです。瞬間の断面が、今までは目に見えなかった動きが見えるようになったということです。ドイツの評論家であるベンヤミンは、その人の重要性は今非常に高まってきているのですが、目に見えなかったものが見えるようになったことを「視覚的無意識」という言い方で表現しています。
このように、運動の断片化、運動の断面が明らかになるわけですが、マイブリッジ自身はこの重要性にはそれほど気づきませんでした。映画への道のりは、ここからまだ遠いのです。
次に、生理学者であるマレーの撮った連続写真についてお話ししたいと思います。マレーはカメラ自身を工夫して、写真銃というものを作り上げます。写真銃とは、連続してシャッターを切れるように、連続して玉を出す銃と合体させたものです。それによって1秒間に12コマの撮影が可能になりました。
マレーという人は生理学者だと今言いましたが、動物がいったいどのような動きをするのか、彼の関心はそこにあったのです。だから、ただ単に動きというものを断片化するだけでは彼の興味は満たされないわけです。つまり、この動きの後にどういう動きをするか、動きと動きの比較ということが彼の場合は非常に重要になってきます。
彼の撮った写真を見てみると、クロノフォトグラフィという名前がつけられているものは、1枚の原板(乾板)上に多くの瞬間写真を重ねて撮影されています。人自身は動いていなくて、動きが写真上に何回も重ねられて映っているということになり、バラバラにしっぱなしのマイブリッジとの意識の違いがわかるのではないかと思います。こういった写真では、物理学の実験でも見ているような感じがします。人が移動している写真では、地面は全然変わっていないのですが、その人が動いているということになります。同じ写真上にこれだけ焼き付けているというわけです。また、秒針で時間をあらわしているのだと思いますが、中心に動かない秒針があり、動かないと言ったらいいのか、1個の上にさまざまな秒針が動いているものがあります。さらに、時計はありますが、前との違いとして1枚1枚が切り離されているものになりますと、我々の知っている映画フィルムへの一歩がこれで踏み出されたということがわかります。そして、時計がバラバラになっているものもあり、もちろん動きもバラバラになっているわけです。
そのように、彼は写真を紙のロールフィルムに巻いて使い、フィルムの上へ撮るという試みも始めるようになります。ここからは映画への本当の一歩になります。ところが、何が足りないか、何が映画とは違うかというと、これはこれでおしまいであり、映画になるためには投影をしなくてはいけない、映写をしなくてはいけないということです。彼はそれには成功しませんでした。
彼の試みのおもしろいところですが、黒い格好をした人物に発光するランプみたいなものをくくりつけて写真を撮ると、その人物の顔も腕も胴体もどこかに消えてしまって、ただ彼の動きが線となってあらわれているだけです。こうなりますと、人間の存在というものが線に変わってしまいます。つまり、単なる光学的な情報になってしまうのです。人間という存在が、単なるコードになってしまっているということがわかるのではないかと思います。また、何かを飛び越えた人物の跡がありますが、顔もなく、何かの物体が通ったようになっています。つまり写真の上では人間だろうと何だろうと、みんな光に還元されてしまっているということになるのです。
さて、まず人間の存在というものが情報になってしまったということが1点あり、もう1つは彼の発明した銃とカメラを合体させたようなカメラ、写真銃ですが、それは戦争と映画が合体したものだというヴィリリオの指摘があるのです。ヴィリリオはフランスの思想家です。もうこの初期の時代から、映画と戦争という要素の共通性がわかるのではないかと思います。20世紀は映像の世紀と言われていますが、映像の世紀とは戦争の世紀でもあるわけで、この2つは互いに結び付き合いながら発展していったということになります。
具体的には、戦争の兵器である銃がカメラの仕組みの中にとらえられたということがあります。また、戦争が集団戦になってくると、敵の情報をいかに的確にとらえるかという情報戦争になり、監視する兵器というものが開発されてくるわけです。そこで、カメラも重要な役割をしてきます。つまり、見るということが戦争でも重要な要素になるので、飛行機にカメラを積んで敵情を視察したりするわけです。
もう1つは情報処理です。例えば飛行機が飛んでいって集めてきた敵の陣地の映像があるとすると、それを処理しなければいけません。ここは1カ月前とはこんなに違っているという処理の仕方です。そこでは、先程の連続写真のように人も1つのコードになってしまい、すべての存在が情報へと還元されてしまうという、驚くべき非人間的なものとなってくるわけです。
さらに、何も説明なしで見ますと、灯りを体の側面に付けて動いた人を撮った、先程のマレーの写真を思い出させるような写真がここにあります。ところが、見かけは全く同じですが、実はそれは戦争の写真であり、ドイツ軍による対空防衛が生んだ光のイメージなのです。それを見るだけでも、戦争と連続写真との共通性がわかるのではないかと思います。
死と映像ということは、写真を撮ると魂を吸われるというような迷信を昔の人はよく信じていた、ということを思い出していただければわかるのではないかと思います。また、映像を見ると、古い写真だなとか、この人はもう死んでしまったなとか、ここにいない人への思いがまざまざと起こってくるように、映像を見るときには感慨というものがあるのではないかと思います。それについては、フランスの思想家のロラン・バルトが写真論で、『明るい部屋』というタイトルの本で述べています。