現代哲学からのアプローチ・・・「グローバル化する現代と伝統文化」 
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「普遍性への志向」と「多元性の尊重」は調和可能か



 人間社会が持っている排他的な傾向は、人間は皆同じで、平等だと主張する人も、実は人種差別、差別的な傾向になる可能性もあり、人間は一人ひとり違い、あるいは文化によって違うという人間の違いを強調する人たちも、可能性として人種差別等をする可能性があるとタギエフ(フランスの社会学者)は言いました。
 下記の図を見て下さい。

          人種主義1     同化(疎外化)

    人種主義2     隔離(差別)

    反−人種主義1  個人に対しての平等な権利 

    反−人種主義2  共同体のアイデンティティーに対する権利  


 普遍的なものを目指すのは、実はアングロサクソンのイギリス・アメリカのもっている論理です。人道主義は、自分たちの尺度を絶対とし、その他の人たちの価値観を否定して、自分たちは本当によいことをしているという形です。これは、他の国の独裁的な体制に対して一見すると正義を行うように思いますが、しかし逆に自分たちの価値観を押しつけ同化させています。例えば、フランス国中でイスラムの人たちが受けている扱いです。人間は平等で普遍的であって、特殊なものを認めないところがあります。当然、個人主義的な普遍主義の立場でも人種差別に対して戦います。逆にいうと、違いを強調します。違いの尊重は、現代相対主義としては、よい点があります。しかし人間は違いがあり、違いは違いとして認める。すると自分たちの価値は、どんな価値をもってもよいという話になります。例えば差別するのも自分たちの文化のひとつだ、というような話になってきます。そして、日本の中に住むそれぞれの民族も自分たちの風習を保持・顕示することを認めるような意味での相対主義があります。それはある意味では、反人種主義的な共同体主義になるのです。
 結局どちらも善悪でありうるというのが、タギエフの鋭い指摘であって、これが一般に混同されています。しかし問題は、ある種の普遍的な価値を共有しなければいけないということも必要であるし、それを他人に押し付ける危険性も同時にあるという議論なのです。
 もう1つの議論として、結局、普遍主義に立つのも共同体主義に立つのも、あるいは相対主義といって、それぞれの立場で立つのも危険性があることです。
 ロールズ(現代の正義論の第一人者)の正義論に対しての批判を検討してみましょう。
ロールズ

ロールズの『正義論』とは?
 この分析を通じて、普遍主義的な立場に立つにしても、共同体を重視する立場にしても、その立場の人がどのような正義観をもつかは、実は歴史的にもう決定されて、拘束されていると言いたいのです。タギエフは、個人主義で普遍主義の立場に最終的に立っています。これはなぜかといいますと、どちらも反人種主義で差別に対して反対の立場に立っているのです。タギエフはフランスのある種の普遍主義が、自分の信ずるところだと言っています。
 ロールズの議論も普遍主義の立場で、それに対してマイケル・サンデルは鋭い反論をしました。例えば、アメリカの伝統は17世紀のロックの自然法思想、自然状態において人間は自由で平等の存在であるというもので、肉体をもって労働するとしています。労働して、プロバティ(私有財産)を自分で作り上げる存在と言い、いわば人権とか自然法思想は、フランスの人権宣言・アメリカの独立宣言に生かされました。ヨーロッパの伝統の中で、息づき、かつアメリカの建国の理念にロールズは依存しているとサンデルは言っています。
 結局、正義・人権の概念は、近代宣言の中に出てきたわけではなく、歴史的伝統、共同体的な社会の中で培われてきたものです。ロックの考え方も、キリスト教的な人間観を見る立場もあり、例えば人権という考え方が、世界の人々の中で、イスラム教の人々でも自分たちの人権を主張します。それは単にキリスト教の考え方やアングロサクソンの考え方が、広まったという単純な話ではありません。例えば日本人が明治時代にヨーロッパの社会のいろいろな思想を受け入れた時には、それは全く異質なもので、理解不可能であったなら、それは受け入れないものだったはずなのです。それは、それぞれの文化の中で、普遍的なある種の価値観、例えば日本人にしかわからないような価値観ではなくて、狭い排他性を克服したある種の普遍的価値観を自分の伝統の中にもっていたからこそ、他から人権自然権の考え方が伝えられた時に理解できたのでしょう。例えばキリスト教の日本における受け入れ方を見ても、変容した形で自分たちの伝統の中にあった考え方をキリスト教の中に見出しています。このような変化が、自分たちの歴史の中に自分たちの狭い排他性を克服するような契機になります。それはある種の近代化が成された国々の中には、いろいろな形であっただろうと思います。だから儒教・仏教の中にも、それが潜在的にあり、その伝統文化の中に、いわばアイデンティティーを築くだけの機能ではなくて、むしろ自分たちの偏狭さと排他性を打ち破るような契機もそれぞれ様々な形であったわけです。それが、例えば日本の中で積極的に探して、重視していくことが、伝統文化を生かす方向ではないかと思います。
 そして、その普遍的なものでも必ず歴史的なつながりがあって、土着的なものです。自分たちの「土着性」を自覚することが必要でありますし、「根を張っている」という意味です。例えば思想の中で、自分たちの考え方の土着性・ルーツを重視せず、いきなり切断する形は弊害が多いと思います。自分たちのもっている「限界性」、「土着性」を自覚することによって、確認することになるのです。「土着性」を確認することが、自分たちの殻に閉じこもることではなく、むしろ普遍的な価値を自分たちの文化の中で確認し、初めて、このグローバル化の現代において、自分の存在の意味を伝統の中に根付かせることができるのではないかと思います。
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