現代哲学からのアプローチ・・・「グローバル化する現代と伝統文化」 
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個人における自己反省モニタリングと社会システムの「自己関係性」


 現代の人間は、自己を対象化し、自らの振る舞いを絶えず気にかけながら、同時にそれは「世界劇場」のうちに起こる出来事の目撃者として「大いなる主観」となっています。この「世界劇場」は、シェークスピアの時代に、すでに近代人の不安・自己意識の中で、役者として演じ、かつその世界の中に起こる出来事を主観として見る形ででてきます。その自覚は、近代の運命である<対象と主観>への分極化、見る側と見られる側の分極化が起こるのです。主観はそのような分極化自体を認識する主体でもあります。つまり、分裂していること自体も自分自身でわかっていて、自己関係的知を本質的に含む主観として存在してきたのです。この中心的な構造が自己関係的な知の絶対性です。平たく言えば、人間は自己意識をもっていて、自分自身を絶えず意識しているところが人間の本質であるという考えです。
 そうすると、近代では「対象と主観の分極化」が生じたということのみならず、さらに必然的に対象と主観性が相互に密接に絡み合い、<主観が対象に働きかけることで実は対象自体が成立するし、そのような対象に働きかけるという営みの主体としてのみ主観が確認されうる>という構造が理論的に明らかとなります。これは、世界も実は主観の方が作っているという論理になります。自分と客観的な世界が対応していて区別ができない。結局、「事実性」が成立し得ないということが気づかれてくるのです。近代では事物を作り上げる、つまり、「物語る」主観が人間であるわけです。すると、「なまの事実」、歴史的な意味で客観的な事実は成立しなくなるのです。
 歴史に関する議論で歴史をどう記述するかが、必ず問題となります。なぜなら、ひとつの事実でも、記述する仕方によって変わってくるからです。それが近代の人間の意識のあり方として必然的にでてくるし、社会全体も、そのようになっているといわれます。
 このような構造は個人の認識構造にだけ見られるのではありません。実は現代の社会全体がそのような構造を有しているのです。現代の人間を社会単位で大局的に考察すれば、急速に発達した様々な情報メディアにより現代社会全体がモニタリングされています。社会の中の個々の事象は社会自体によって認識され、認識された事象は、社会のあり方自体に影響を及ぼします。経済学・政治学の学問的知識の場合は、例えば経済の理論が経済に影響を及ぼしますし、政治にも影響を与えます。
 もう一つはマスメディアによって社会の情報を汲み取ることです。そして報道された情報が社会にまた影響を及ぼすという、循環的構造をいいます。人間が自分自身の行動をモニタリングしているのと同じ構造になるのです。このような構造が、現代社会では複雑な自然現象のように、例えば気象の現象は複雑な現象ですが、スーパーコンピュータによって予測できます。この複雑性と人間が絡むことによって自己関係的行動、つまり、自分のことをモニタリングして自分で変えてしまう回路により、格段に予測が難しくなります。ここでは、自然現象とは、カオスのような現象でも、一定の 「均衡点」といって、ある秩序が保たれた状態に達します。しかし、経済活動は均衡点に達することはなく、自然現象のように研究することはできないのです。
 ニュートンの自然哲学を経済現象にも応用できるのではないかというのが、アダム・スミスの発想ですが、例えば、ジョージ・ソロス(投資家)によれば、それは根本的に間違いで、つまり研究する対象と研究される対象は絡み合っていて、お互いに影響するところは全然違う原理になると言います。現象となって現れるのがブームとバスト(boom and bust)の繰り返しです。行動・株価・経済の高騰と暴落です。
 現象として、マスメディアによる投票予想が、アナウンス効果の形でその投票に影響を与えます。それから株価予想は、例えばある経済理論が流行るとその経済理論によって投資が行なわれるようになります。あるいは投票なら「勝ち馬に乗る」という「トレンド追従行動」。その振り子が大きく右左に振れ、一定の安定した状態には達しません。これが現代で、マスメディアが発達し、経済現象、政治現象に関する理論がいわば自然科学の現象で研究されることによって、予想不可能になります。もともとそれらの人間の行為は、例えば歴史も一時期は、科学の対象、自然科学のようにひとつの法則によって解明できるという考えが出てきましたが、しかし人間には、予測破りがあり、違うことをわざとすることがあります。自己意識が絡むことによって現象が全然違うレベルの複雑さをもつということです。基本的に人間は、現代において出てきた自分自身の社会現象・政治・経済も、果たして自分自身に対しての認識は、完全に行なうことができるかどうか、自分自身に対する知の「不完全性」となります。そして「不安」というものがでてくるのだと思います。
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