“精神病者”の権利はなかったのか?―ヨーロッパ精神医療史の落穂拾い― 
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【近代以降のゲール】

 さて本当はここで話も終わりにするところですが、時間もありますので少しおまけの話をしたいと思います。それは、ゲールがその後どうなったかということです。1789年にフランス革命が起こりました。ちょうど同じ年、オーストリア支配を打倒する革命がゲールやブリュッセルを含む、ベルギーの北部で起こりました。翌年の1790年には、いったんベルギーの独立が宣言されましたけれども、1794年には、今度はフランスに支配されることになりました。その結果、さきほど述べてきたゲールの支配秩序は崩壊します。1797年には、ついに巡礼のシンボルであった聖ディンプナ教会も閉鎖に追い込まれています。一番最初に述べた、フランスの人権宣言が宗教性を徹底的に排除したものであったことを思い起こしてください。
ゲールの家庭看護
ゲールの家庭看護
 しかしゲールの精神病者の家庭看護は生きのびていきます。しかも19世紀の後半になると、今度は先進的な精神科治療として世界の注目を浴びるようになるんです。この写真はゲールの家庭看護を紹介するパンフレットに使われた写真ですが、農家で暮らす患者の様子がよくわかるかと思います。もちろん、この家族は患者の親族ではなくて、まったくの他人です。患者は農作業の手伝いをしながら、下宿しているわけです。下宿といっても、何年も、何十年も、一生そうやって暮らしていることも少なくありませんでした。
 しかしこのどこが先進的な精神科治療なんでしょうか。実は19世紀後半に、精神医療が、精神病院による閉鎖的な治療へと傾いていって、その弊害が指摘されるようになってきました。それで家庭看護という開放的なゲールのやり方が進んでいると認識されるようになったのです。しかしゲールには、医療がない、という批判が前からありました。そこで1862年には、近代的な精神病院を設立して、ゲールの家庭看護を医学的な面でも管理運営するシステムを作りました。しかもこれは国立で行っているわけです。こうなると国際的な関心はますます高まって、世界中からゲールへの見学者が殺到します。そして自分の国でもゲール式の精神病者の家庭看護を導入しようとしました。特にドイツやフランスでは、少なくとも第一次世界大戦まではかなり盛んに家庭看護を行っていました。国際的な関心という意味では、日本からの関心も例外ではありません。ゲールの精神病院に保存されている、ゲールの精神病院を見学に来た人の訪問者名簿に、最初に登場する日本人の医学者が、さきほど名前を挙げました、東京帝国大学の精神科の教授であった呉秀三なんですね。正確な日付はここに載っていないんですけど、1901年の夏、呉秀三はおそらく、4年間のドイツ・オーストリア留学からの日本への帰り道に、ゲールを訪問したことがわかります。呉秀三は留学前からゲールに注目していましたが、ここで自らの目で確認したことになります。

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