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異文化とのふれあい


  私は日本で生まれました。父はイタリア系アメリカ人で母は日本人です。4歳まで日本で生活していましたが、その後ドイツに4年、アメリカに1年、イランに4年、タイに2年そして日本に帰ってきました。海外を転々とした生活をしていたので、その国々で新しい友だちを作り、せっかく友だちと仲良くなったところで離れなくてはならないということの繰り返しでした。ですからずっと日本にいて、小さい頃から同じ幼稚園、小学校へ行って、中学校、高校と皆一緒というのが、すごくうらやましかったのです。しかし、違う所で新しい友だちと出会った方がよかったと言われる方もいるので、人間というのは隣を見てしまうとそちらの方が良く思えてしまうのかも知れません。どちらがいいのかは今でも分かりませんが、色々な文化に触れることが出来たことは確かです。
 私にとって文化との最初の触れ合いというのは両親だと思います。父はイタリア系のアメリカ人です。先祖は1800年代の終わり頃に第1次イタリア人移民がヨーロッパからアメリカに移動したときにニューヨークに渡りました。そして父は、祖父母が小さいときからお付き合いしていた家族のお嬢さんと結婚すると小さいときから約束していたようです。父は女4人、男4人の8人兄弟ですが、第2次世界大戦が始まったときに父が軍人になり、日本に来た時はちょうど戦後でした。
 母方の祖父母は日本人で、祖父は岐阜の高鷲村の出身です。昔そこは田舎で、祖父は田舎暮しが嫌で弟に家を譲り、東京で一旗揚げるために上京したそうです。祖母は、神奈川県の葉山町生まれで漁師の娘でした。丙午で生まれて、その年は丙の年でしたから、昔の習慣で外に出せば家族が困らないということで、祖母を船に乗せて海に流し、近所の親戚が祖母を拾って育てたという話を聞いたことがあります。母からその話を聞いた時に、何故そんなひどいことをするのだと思いましたが、私の母は、日本には昔からそういうしきたりがあり、丙午の女性というのは良くないと言われていたと言っていました。「これは人権侵害で、女性の地位が上がらない原因よ」と母と議論したことがあります。その後、葉山のある華族の方のところに行儀見習に行っていた祖母が、大工仕事の棟梁をしていた祖父と知り合い、結婚をして母が生まれました。母は東京の神岡という所で女4人兄弟の中で育ちました。戦争が始まると一番下の妹だけが疎開し、あとの3人はずっと東京にいたそうです。空襲のサイレンが鳴って庭の防空壕に皆が駆け込むと、そこには大きな水あめの樽が入っていて、子どもたちがトンカチを持って水あめを割ったそうです。外では空襲を受けて悲惨な戦争が起きているのに水あめを食べて楽しんでいたということで、子どもというのは自分たちがどんなに悲惨な状況にあっても、何か別の楽しみを探すものだと母から聞かされていました。
 戦争が終わって母が女学校を出た頃、友だちの紹介で日本語の勉強をしていた父と会ってデートすることになりました。しかし父はアメリカに許婚がおり、アメリカに帰ることになりました。父が帰国してしばらくしたある日、母が家にいると、「兵隊さんが外に立っていて、おじいちゃんたちがその人を見たらけんかになるといけないから、何しているか聞いておっぱらってきなさい」と祖母に言われ、驚いて外を見たら父が立っていたそうです。祖父はアメリカが大嫌いでしたから母も慌てて、「あなたアメリカに帰ったんじゃないの?」と聞いたら、「アメリカに帰って婚約披露パーティーの夜に彼女にキスしようとしたら、にんにく臭くて結婚できないと思い、あなたを迎えに来た」というのです。父は冗談が大好きですから、やっぱり本当は母のことが好きで帰ってきたのですね。
 その頃は国際結婚を日米両政府が認めた時代でしたが、父は片言の日本語、母も片言の英語でしたし、母は悩んで祖母に「どうしよう」と相談したそうです。祖母は「海を渡って帰ってきてくれるぐらいなら大事にしてくれるから駆け落ちしてでも結婚しなさい」と、母の支度をして出しました。
 それで結婚をしたわけですが、母は勘当されていましたからなかなか家に戻れない状況でした。これから私が生まれるという時に、祖父は青い目の赤ちゃんだったら家に連れて来るなと言ったそうです。私の目は茶色だったので家に戻れたのですが、そうやって偏見を持ちながらもやはり娘はかわいいという、複雑な思いがいろいろあったと思います。文化はとてもおもしろいもので、人間の価値観などがその中に反映されたりするのです。
 小さい頃、母たちは祖父と同じ部屋で食事をすることが出来ませんでした。床の間で祖父が晩酌し食事を終えるまで祖母はいつも横に座っていて、女性たちは隣の部屋の小さな食卓で、皆で食べたのだそうです。「まるでお手伝いさんみたいで人権侵害だ」と言うと、「そんなことはない。日本の女性は昔からそうやってきたのだ」と言われました。
 祖母は父をとてもかわいがってくれて、父も祖母を大事にしていました。 祖父母が夫婦喧嘩をした時、祖父が祖母に手を挙げようとしたことがありました。たまたまそこにいた父が祖父の手を払ったので祖父もびっくりして、父の頭をポコンとげんこつで叩きました。「何をするのだ」と父が怒ってしまい、私を抱いて米軍のベース基地に帰ってしまったことがありました。母が、家に帰れなくなると困るから、一升瓶を持って謝ってくるように頼みました。父は、「何故自分が謝りに行かなきゃいけないのだ」と怒りましたが、母が「これはジャパニーズウエイで、相手にいやなことをされても自分の方から謝れば、相手は自分が悪かったと思い返して仲良くしてくれるから」と言いました。父は一升瓶を持って、祖父に謝りました。すると祖父は「よしよしと」言って、一緒にお酒飲もうと一升瓶を空けるほど飲んだらしいのです。驚いたことに、それ以降、祖父と父はとても仲良しになってしまいました。
 このように、私は小さい頃から2つの文化と2つの価値観の中で育ってきました。
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