ことばの万国博覧会 ヨーロッパ館 
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ロシア語−実存する「われわれ」−  (講師:加藤史朗)


加藤史朗先生

加藤史朗先生

 ロシア語はインド・ヨーロッパ語族のひとつです。意外な古い言葉が残っています。それはインドのブッダです。“Будда”(ブッダ)は「目覚めた者」という意味です。ロシア語で目覚まし時計を“будильник”(ブジリニク)と言います。“будить”(ブヂーチ)「目覚めさせる」という動詞から派生した語です。インドで生まれたブッダという語と同じルーツです。


<日本との関係>
 日本とは意外に深い関係にあります。日本人はロシアのことを「おろしゃ(遊呂舎)」、ロシア人を「ロスケ(露助)」と言ったりします。それから今の若い子達も使っているロシア語がたくさんあります。

(日本語の中のロシア語)
ノルマ норма  コンビナート комбинат  トーチカ точка  ペチカ печка  ルイバ рыба(ルイベの由来)  イクラ икра  カンパ кампания  ウオッカ водка

「ノルマ」は達成基準目標のことで、シベリアから帰ってきた人が使ったために広まった言葉です。今でもビジネスマンが使っています。それから「カンパしてください」と言う時の「カンパ」もロシア語からきています。それから北海道の珍味「ルイベ」があります。ルイベは凍った魚を切ったもので、これを広辞苑で調べるとアイヌ語となっているのですが、実は古いスラブの言葉です。
 逆に以下のような日本語がロシアに入っています。

(ロシア語の中の日本語)
ツナミ цунами  ダイコン дайкон  トウフ тофу  サケ сакэ  スシ сусисуши)  ヤキトリヤ якитория  カワサキ кавасаки  フロシキ фуросики  サムライ самурай  カミカゼ камикадзе

最近よくみるのは「カミカゼ」や「スシ」です。


<ロシア語の特徴1>
 “Что это?”(シュト エタ)は「これは何ですか?」という意味です。日本語で「これは何?」でも「何これ?」でもいいように、“Что это?”でも“Это что?”でも順番はどちらでもいいのです。語順が自由であるということは、例えば“Я люблю тебя.”(ヤー リュブリュ チェビャ)は「私はあなたを愛しています」という意味ですが、これをどのように並べてもいいわけです。“Тебя я люблю”でも、それから“Люблю тебя”というように一人称の“Я”を省いてもいいのです。こういうことが詞の可能性を高めます。
 その例を恋の歌でみていこうと思います。右の楽譜は「黒い瞳」という有名な歌です。“очи”(オーチ)が「両目」で、“чёрные”(チョルヌィエ)が「黒い」という意味で、形容詞が後ろにきています。後ろにきても前にきてもいいのですが、この場合は歌いやすく韻を踏むために順序を変えています。3段目の“Как люблю я вас”(カーク リュブリュ ヤ ヴァース)は「どれほど私はあなたを愛しているか」、次の“как боюсь я вас”(カーク バユーシ ヤ ヴァース)は「どれほど私はあなたをおそれているか」という意味です。4段目の“увидел вас я не в добрый час”(ウヴィヂェル ヴァース ヤー ニェヴドブリイ チャース)が「私はあなたに具合の悪い時に会った」という意味で、つまりひとめぼれしてしまったということです。“я”の「私は」という主語が後ろにきているのが分かると思います。この歌をロシア人は自分流に歌います。行の最後をみていくと、“страстные”(ストゥラスヌェエ)、次の行が“касные”(クラスヌィエ)、次が“вас”(ヴァース)、次が“час”(チャース)とあり、韻を揃えています。このようにロシア語は語順が自由になります。


<ロシア語の特徴2>
 実存する「われわれ」という大げさなサブタイトルがつけてあります。これは有名な哲学者ベルジャーエフの言葉です。西洋哲学の中では、個人としての私と神との対話ということを言っていますが、この人は、それは「われわれ」だろうと言ったのです。その「われわれ」の中の私という言い方をロシア人は大事にします。従って実は“Я люблю тебя”や“Я люблю вас”という恋を語る時は別ですが、“Я”という主語を隠します。これがロシア語のもうひとつの特徴です。
 例えばフランス語で自分の名前を言う時は “Je m'appelle Shiro Kato.” (ジュマペール シロウ カトウ)で「私は私を加藤史朗と呼ぶ」というふうに表現します。ロシア語では “Меня зовут Сиро Като.” (メニャ ザヴト シロウ カトウ)で「(世間の人が)私を加藤史朗と呼ぶ」と表現します。 “Его сегодня ночью убили.” (エヴォ セヴォドニャ ノチユ ウビリ)、これは主語が消えています。 “Его” は「彼を」、“сегодня” は「今日」、 “ночью”は「夜に」、“убили” は「(誰かが)殺した」という意味です。「今日の夜殺した」ということは「昨夜」ということです。夜の考え方が日本とは違います。「彼を今日の夜誰かが殺した」、つまり日本語で言うと「昨晩彼は殺された」という意味です。犯人はひとりかもしれませんが、これは複数の過去形になっています。さらに “Нас упрекают” (ナス ウプレカーユート)は「私たちは非難されている」という意味ですが、誰が非難しているかは明らかにしていません。 “Мне хочется пить” (ムネ ホチェツァ ビチ)、これはのどが渇いた時に使う表現ですが、 「私は飲みたい」、英語でいう “I want to drink.” というのはあまりに直接的で下品になります。「なんだかちょっと飲みたい」という感じになります。しかもこの場合、水ではなくて明らかにウォッカが念頭にあると思われます。言葉が文化の精髄であるゆえんです。
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