新大陸の古代王朝(2) インカの国家宗教と政治 
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インカ文明とスペイン人による征服


谷口智子先生
谷口智子先生
 アンデスにおいては紀元前6000年頃からさまざまな文明が発達してきましたが、いずれも新石器時代の段階にとどまっていました。スペイン人が到着した1532年頃には、インカ帝国(ケチュア語で「四方向、四つの地方」を意味する「タワンティン・スーユ」)が広大な国土を支配していました。
 インカ文明とは、ペルー南部高原にあるクスコを宇宙の中心とさだめ、15世紀から16世紀初めにかけて、アンデス一帯に大帝国をうちたてた南アメリカの先住民の創造した文明です。最大の版図は、北はコロンビア南部パストのアンカスマユ川から、南はチリ中部マウレ川に至る全長4000kmに及ぶ海岸地帯と高原、内陸部は東をアマゾン熱帯密林に接し、ボリビア、北部アルゼンチンを含む約300万平方キロメートルにも及びます。インカはもともとインティ(太陽)の神の子で、部族の首長を意味し、唯一最高の絶対的な権力者を指す語です。しかし征服者のスペイン人は皇帝も国家も、また帝国を支えた部族までをも、インカの名で呼びました。
 インカでは記録のためにキープ(結縄)を用いましたが、最後まで文字を使用しなかったので、みずからの手で記された歴史を残していません。そのためインカの歴史や生活慣習の解明は、スペイン人による詳細な記録文書や考古学上の遺跡・遺物を手がかりとして進められました。王朝の起源は、一説には1200年ころクスコ周辺に住み、太陽神を崇拝した農耕民ケチュア族に端を発します。初代マンコ・カパク王は多分に伝説的ですが、周辺部族との抗争の末、平定、連合し、内部反乱をもおさえて、急速に強大化しました。大帝国を築いたのは、9代パチャクティ王(在位1438‐71)から、11代ワイナ・カパク王(在位1493‐1525)の時代です。ワイナ・カパク王の死とともに、正妻の子ワスカルがクスコで、側妻の子アタワルパはエクアドルのキトで、それぞれ王位を継ぎ、5年間にわたる内乱がつづきました。その内乱はアタワルパが勝利を収め、1532年に君主として宣言しました。フランシスコ・ピサロの率いる180人のスペイン人が侵入したのは、ちょうどその頃です。アタワルパはピサロを、世界の終末を知らせるために従者とともに地上に再来する、偉大な神ヴィラコチャであると考えました。ピサロはそれを利用して、抵抗にあうことなくアタワルパを捕らえ、投獄しました。アタワルパは莫大な身代金と引き替えに釈放されると考えていましたが、死刑の宣告を受けました。アタワルパは死ぬ前にキリスト教の洗礼を受けたのですが、それは死後も遺体を残して来世の生活を望むインカ族にとって、遺体を焼いてしまう火あぶりが耐え難かったからです。アタワルパは代わりに絞首刑に処せられ (1533年)、大帝国はもろくも滅びました。

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