日本社会史の現場からグローバルスタンダードを見る 
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おわりに


 最後に、“集団的土地所有”と“融通”についての受け止め方で話をまとめたいと思います。集団的土地所有は、私的=個別か公共かの基準では十分には割り切れないということですが、これは、おそらく、欧米なんかでは、個別か公共かという二つの区分しかないと思います。集団で土地所有をするというような考え方というのが、それほどないのだろうと思います。その辺のところで、一つの違いを見ておきたいということです。そして、集団的土地所有は、個の集団への埋没としてではなくて、その個を保障するものとして、日本社会の個性としてこれを理解したいということなのです。それから、融通というものは、外国語に翻訳すると、資金を貸し付けるというような訳語しかないのです。ファイナンスというか、ローンというような話しかできないのですが、本来、融通というものには、相手の身になって貸し付けるというニュアンスがあるのです。そういうところが、どうも翻訳できないところではないかというように思います。ですから、欧米では、集団的土地所有とか融通というものは、なかなか理解されないわけです。
 ここで、最初の話に戻るのですが、こういう融通とか集団的土地所有という概念が、理解されないからといって、グローバルスタンダードから外れているのかというと、それはおそらく違うのだろうと思います。冒頭にお話ししましたが、日本は、ムラ社会から離れられないわけですが、この概念は、このムラ社会から特質的に現れてきたものです。それと他の社会にあった価値のあるものと融合を図るということが、本来のグローバル化だろうと思うのです。だから、グローバルではないというように切って捨てるのはできないだろうと思います。ですから、民族と社会との責任において、それに根ざす形で、要するに、諸民族、諸地域の融通とかそういったものの価値を認めながら、それを生かす形で、グローバルスタンダードというのを練り上げていく必要があるのではないかと思います。そして、スタンダードというのは、各方面からの押し付けだとか、無批判な受け入れといったものではまずいだろうと思うわけです。今の日本社会を考えると、どうも、無批判に受け入れてしまっているという感じがしますので、やはり、日本社会はムラ社会というものから離れられないわけですから、それを見ながら、スタンダードの相対化を図っていくべきだろうというのが結論であります。要するに、グローバルスタンダードというものを、もう一度、自分たちの社会のたどってきた道から考え直してみようというのが話の大要です。それが伝われば、幸いであります。

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