高等教育機関と生涯学習 ―世代共生と地域共創のために― 
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生涯学習型大学構築への基本課題


 生涯学習型の大学へ、つまり生涯学習を余業から本業へ、そして通学・通信と生涯学習事業の統合へという道を進めていくうえで、どういう影響が、あるいは課題があらわれてくるかという問題です。
 本学において4月1日から始めた通信教育部の事例でお話ししますと、通信教育部の学生たちのうちで大体中心になるのは30代、40代の方です。これがピークで、あとは20代、10代および50代、60代、70代へと裾野を引いていきますが、最低年齢は言うまでもなく18歳の学生です。最高年齢は77歳の方で、立派にインターネットを駆使して授業を受けていますが、この4月に立ち上がったばかりなので、本格的なスクーリングをまだ行っていません。特に対面授業は行っていません。対面授業でもいろいろと工夫をしているところですが、一番工夫をしている点として、18歳から77歳までの方をいわゆる世代別の横の輪切りにするのではなくて、文字どおり込みにした縦割りのグループをいくつか作り、そのようなかたちで学習を行いたいと考えています。
 そういう意味では、テーマのサブタイトルにある世代共生ということ、違った世代の方々がともに生きていく、共同して生きていくことを実現できる、それを支援できるような大学の生涯学習を行っていこうと。そのためには、10代から70代までがいる通信教育部をベースにして、世代共生をまず世代共学で実現しようと。つまり、10代から70代までの方が込みになって学習を行い、人生を語り、それぞれが相談をし合っていくような、世代共学の場が設けられたらいいと思います。
 もう1つは、地域共創を実現するためにも、地域共学をスクーリングの中で実現していこうということです。つまり、全国からそれぞれ都道府県別に何十人かずつの方々が集まっていますから、全国4カ所で行うスクーリング会場では、都道府県別や地域別の共同学習の場も作っていきたいと、いろいろ抱負は持っているのです。そういったことを中心に、基本課題の第一は、世代共生、地域共創の旗印・理念をどうやって実現していくかという問題です。
 実は、文部省の生涯学習審議会で検討し、答申を出したことを先程ご紹介しましたが、その答申の中に、「大学などの高等教育機関も地域の一員であるから、その教育と研究の成果を地域に還元するのは当然のことである」という一節が入っています。これは、戦後日本の大学の歴史上、もちろん戦前を含めてそうだと思いますが、大学自体が地域の一員であると文部科学省自身が言い出したことは初めてのケースです。ご承知のように、大学などの高等教育機関が、なぜ象牙の塔と言われるような時代を長いこと引きずってきたのでしょうか。これは、中世のヨーロッパで発祥した大学の原型、学生たちと教員たちによる学習ギルド社会を引き継いだ、近代の大学制度そのものの中にその原因がありました。
 中世ヨーロッパにおいて、例えばボローニャ大学法律学校あるいは大学等に見られる学生・教員からなるギルド社会は特権を与えられて固い結束を持っていた反面、その他の人々の介入や自らの開放を好まない、極めて閉鎖的な社会としてその後必然的に変質していきました。実は近代の大学・学校制度はこの閉鎖的な側面を引き継いでしまったので、どこの国でも大学というのは、どちらかというと閉鎖的な、密室的な状況がずっと続いてきたことになります。これが大学の開放や拡張ということで、18世紀以降いろいろなかたちで、余業の段階であれ、そのような大学の持っている教育・研究の果実を広く社会に開放してきたことは、非常に積極的な意味を持っていたと思います。
 現段階では、開放・拡張というところからさらに一歩進めて、開放・拡張の姿を大学の本質としてしまおうということが、今後の検討すべき課題の1つであり、それは同時に、大学の研究教育の成果をより多くの世代の方たちや、より多くの地域に還元していくということで、ここが第1点です。これはある意味では当然のことのようであり、簡単なことのようですが、大学が地域と結びつくということには、学内の教職員、場合によっては学生たちをも含めて、おそらく皆さんがそんなにすんなりと意見の一致を見るところではないと思われます。大学の基本的なあり方として、18歳から22歳までの青年期、4年間のモラトリアム期間中に、大学という閉鎖社会の中へどうやって閉じ込めて、教育を行うかという信念を抱いている方々がまだ少なからずおられるからです。
 生涯学習センターを持っている大学では、その雰囲気、特に窓口などの雰囲気と、大学の学部窓口の雰囲気とはまるで違うという状況があろうかと思われますが、生涯学習センターの窓口では事務の人たちと受講者の人たちは友達なのです。ところが、学部の窓口では、教える側と学ぶ側とのけじめというようなことが、今日でもしばしば重視されている場合があります。もちろん社会的な訓練のためにはそれは必要なことだとは思いますが、地方分権時代と生涯学習社会の構築という21世紀への課題を背負うときに、大学の使命、ミッションをどこに置くべきかという第1の課題、論点があります。私は、大学が存在する地域を中心とする世代共生と地域共創のための支援と、もちろん通信手段を持つところではその成果を全国に広げていくというかたちが、第1に検討されるべき課題だと思います。
 第2番目は、世代・地域の学習共同体、学びを中心にした大学の学習共同体への変容です。これは、大学にかかわっておられる方であれば、どなたも日常的に感じられていると思います。例えばゼミナール制度などを1年次から3〜4年次にお持ちのところでは、そのゼミナールの風景が、少なくとも1960年代から70年代と今日では、随分変わってきているという感じを受けられようかと思います。私は半田にある情報社会科学部に移籍する前は、美浜にある社会福祉学部所属の教員でした。その前、名古屋市内の昭和区に大学があったころからずっと続いているのですが、今から18年ほど前の1983年に大学が移転したことを境目にして、ゼミナールのあり方も随分と変わってきた、今日ではなおさら変わっているように思われます。
 名古屋市内に大学があった移転前のころには、例えば私のゼミナールでは、夏休みには6泊7日くらいの1週間の合宿など、当たり前のこととして行っていました。3月の春休みでも、少なくても3泊4日、多いときは4泊5日というゼミ合宿は当たり前のことでした。今では、すべてのゼミナールとは言いませんが、1泊2日の合宿を行うにも、半年をかけて学生を説得しなければ実現できないというゼミナールが出てきています。これは、3年、4年になると、学生は就職準備の関係で大学へ顔を出す機会が随分少なくなってくるとか、夏などは貴重な長期アルバイトの期間だというような考え方の変化もありますが、同時に、ゼミの合宿で宿泊をともにして同じ釜の飯を食うくらいだったら、好き者同士が少人数でどこかへ旅行にでも行った方がいいというような、気風の変化があるからです。こういうものが今日では前面へ出てきました。
 このような状況の中で、いわゆるゼミナールを中心として教員と学生が一体になって、生活から就職から人生の問題までを一緒に考えていくということが、大変困難になってきたというのが私の率直な印象です。完全な姿を完璧に取り戻すことはできないにしても、以前の姿を少しでも取り戻したいと思います。今日の大学教育の中では、ゼミナールを中心に、あるいは実地にあたったフィールド教育、学習の場を中心にしたゼミナール共同体など、もう少し学生と教師が深入りした人間関係を、もう一度持ち直していくことが必要ではないでしょうか。年々浅くなる学生間及び教員・学生間の人間関係を、そのままずるずると引きずっていったのでは、大学という高等教育機関の生涯学習は無論のこと、世代共生・地域共創といっても、それはお題目だけに終わってしまうのではないかと思います。
 最後に、教職員・学生の意識の変革ということです。むしろ教職員を中心に意識を変革するということが、ある意味では最終的な、かつ最大の課題であるのかもしれません。先程お話ししましたように、大学を人生の中の4年と、プラスアルファの通過点としてとらえるのではなく、必要があれば生涯に何遍でもやってくる、ホームベースとしてとらえていこうという考え方に、教職員・学生が、とりわけ教職員がなりきれるかどうか。
 仮に予想の問題として、つまり可能性の問題ですが、このような意識変革がなし遂げられたとすれば、大学の姿は文字どおり一変すると思われます。それは、いい意味で大学の歴史の原点に回帰することです。原点回帰といっても、ただ中世ヨーロッパへもう一度帰りましょうということではありません。そもそもの初めから閉鎖性を持っていた、あるいは持たざるを得なかったギルド的自治団体ではなく、社会の評価を受け、社会に向かって自己表現を行い、そして社会の第三者による評価をいつも得ながら、教育や研究を進めていけるような大学の姿というのは、文字どおり生涯学習型大学の構築の実態、中身になると思います。
 また、21世紀には、外発的な圧力であれ、内発的な改革の方向であれ、少なくとも今のかたちを持続していくのでは展望を持つことが難しいとなれば、この生涯学習型大学という視点、選択肢が、今後重要な現実味を帯びてくるのではないかと思います。

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