高等教育機関と生涯学習 ―世代共生と地域共創のために― 
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はじめに


 日本福祉大学は知多半島の美浜町及び半田市の2カ所にあり、美浜町には付属高校を持っています。そのほかに、名古屋市と高浜市には専門学校を持っています。それらのうちでも大学を中心に、私どもの体験を踏まえながら、高等教育機関と生涯学習についての話題を提供し、一緒に考えていきたいと思います。
 私どもの大学では、平成7年(1995年)4月1日に生涯学習センターを開設しました。したがって、生涯学習センターとしての生涯学習事業の展開はまだ日が浅いのですが、これを含めて大学等の開放事業をご覧いただきますと、公開講座、社会人特別選抜入試、夜間大学院、大学の夜間開講制、大学院・大学などの通信教育、3年次編入、聴講生・研究生・科目等履修生という項目があります。日本福祉大学ではこのようなことを、大学等の開放事業として今までずっと執り行ってきたのです。本日は、それらの中で主立ったものを、これらの項目では必ずしもくくることのできない新しい試みなどを含めて、お話してみたいと思います。

大学の開放・拡張

 18世紀から19世紀へかけて近現代的な大学制度が設立されてきました。大学はヨーロッパの中世を中心にできてきましたが、これからの時代である21世紀には、その時代をもう一度振り返ってみて、そこにある積極的なものを今日の大学制度の中に取り込んでいく、大学等の高等教育機関はそういう時代に直面しているのではないかと、まず私の率直な考えを申し上げます。
 大学の原型は、今から1,000年以上も前の8世紀にまでさかのぼり、中世のヨーロッパにおいてできてきました。代表的なものとしてイタリアのボローニャ大学が有名ですが、8世紀に法律学校として出発し、12世紀には法学部系のカレッジになり、法王から特権を得ている一種のギルド制度、組合的な自治機関として、その前身ができ上がってきました。
 活字による印刷機の発明は15世紀くらいのことだと思いますので、8世紀から12世紀のヨーロッパにおいて、ボローニャ大学等の授業の様子は、ほんの数点ですが、今日では版画でのみ見ることができます。そのうち大変印象深い版画が2つあります。1つはどういう人たちが学生であったのかという問題です。老若男女と言いたいところですが、ヨーロッパでも中世のことゆえ、版画の学生像には女性の姿は彫られていません。その代わり男性では文字どおり若い層から高齢者の層まで、さまざまな学生の顔が版画に彫られています。したがって、制度化された大学としては、18歳人口を中心とする今までの大学のイメージとは随分違います。むしろ世代の枠を超えた、生涯学習的な学習風景というイメージの方が強いように思われます。
 もう1つ、町のどこかで授業を終えた教授が、同じ市内かどこか、他の場所へ移動する風景が彫られた貴重な版画があります。それは、先頭に立った教授の後に学生たちがかごを背負ってぞろぞろついていくというものですが、当時の人々が荷物や生活用具、所帯道具一式を背中の大きなかごに詰め込んで、それを背負って旅をしたという中世ヨーロッパの風習がしのばれます。追っかけという社会現象は、私はてっきり今日の「杉様」等タレントなどの話だと思っていましたが、中世時代の大学は文字どおり追っかけでした。先生の行くところどこへでも学生たちがついていき、自分たちも含めて先生の食事の用意をし、生活の面倒を見て、そして先生は各地で授業を続けていたということがよくわかります。したがって、先生と生徒との関係、間柄を一種の学習共同体という言葉で私はよんでいますが、学習、学ぶということを中心に非常に親密なコミュニティーあるいはコンソーシアムを作っていたのではないかと思われます。
 中世のヨーロッパにおいて、なぜそのようなかたちで先生と学生たちの学習共同体ができ上がったのでしょうか。先程ギルド組織に少し触れましたが、ボローニャ等が中世ヨーロッパにおいて1つの自由都市であったことと、深く関係があるように思われます。例えば日本でも戦国時代に織田信長が全国を統一した後に、大阪の堺市などに自由都市ができますが、そこでは文字どおり市民が1つの町を経営していったのです。そのためには、それなりの新しい知見が必要とされます。さしあたりは、町を経営するための法学関係の知識をどのように身につけるかということで、市民たちが老若を含めて相談し、自治機関としてギルド組織を作り、自分たちでお金を集めて先生を招いていきました。その後は法学関係の知識から哲学、その他にまで次第に広がっていったということではないかと思います。
 21世紀を時代的な特徴で言えば、申すまでもなく地方分権時代であり、社会の特徴としては生涯学習社会ということが喧伝されています。地方分権時代と生涯学習社会という新しい流れに沿って、私たちが実際に教え、あるいは学んでいくためには、どういうかたちの高等教育機関が必要かということが、今どこの高等教育機関でも問われているように思われます。


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