ハリウッド映画の王道と言われるメロドラマ、ロマンスを中心に、アジア人が登場する初期のハリウッド映画をもう少し詳しく見ていきます。取り上げる最初の作品はセシル・B・デミル監督の『チート』(1915年)です。
例外的なことですが、この映画では早川雪洲という日本人の俳優が日本人の役、ヒスル・トリイを演じています。ニューヨークに住む骨董美術商という設定です。しかしながら、1年後の1916年版では日本人の古美術商という設定がなぜかビルマの象牙王に変わっています。実は1915年には第1次世界大戦が始まるのですが、日本はこのときアメリカの同盟国として戦っていました。ところが、この映画は白人中心とか家父長制、中産階級のモラル等、いわゆるアメリカ国家を支える価値観を守るというメッセージを強く発しており、その中で日本人のトリイは秩序を乱す悪者として描かれています。そのため戦争が始まると、同盟国の人間を悪者に描くのは問題ではないかという配慮がされたのです。また、この時期までに移民した多くの日系人がすでに日本人コミュニティーを作っており、この映画を見た人たちがそれに団結して抗議したといういきさつがありました。そういったことを踏まえて、ビルマの象牙王に変えてしまったのです。
ただ、これはサイレント映画なので、人物紹介は最初に文章で説明されていまして、その文中で「日本人の古美術商」の部分だけが「ビルマの象牙王」に変えられているのです。映像そのものには何も手を加えられていないので、私たちにはトリイはどう見ても日本人で、ビルマの象牙王とはとても思えないのです。ここでは、黒のイメージがとても強調され、トリイの不気味さが暗示されます。しかし物語が始まる次のシーンではトリイは結構スマートな、アメリカナイズされた男性として登場しています。前とは対照的に白いスーツに身を包んで明るさが強調されています。
あら筋を説明します。上流階級のハーディ夫人は有閑マダムで、いつも美しく着飾っている浪費家です。夫を同伴せずに単独で行動し、社会事業などにもかかわっている積極的な女性として描かれています。つまり、伝統的な女性像とは違う新しいタイプの女性なのです。夫に浪費をたしなめられたハーディ夫人は困ってしまい、自力でもうけてやろうと、赤十字の役員として預かっていた寄付金を株につぎ込んでしまいます。ところが、株に失敗してお金を全部なくしてしまうのです。それが明るみになってスキャンダルになることを恐れた彼女は、トリイにお金を無心します。トリイは彼女と性的な関係を持ちたがっているのですが、その下心を知りつつもお金を借りるのです。夫は妻や家庭を顧みないワークホリックな男性として描かれていますが、タイミングよく彼が株の仕事でもうけたので、彼女はお金を埋め合わせることができます。トリイにお金を借りたことは言わずに、ただお金がなくて困っていると泣きつき、夫から振り出してもらった小切手を持ってトリイに借金を返しに行くのですが、トリイはそれを受け取らずに突然彼女に乱暴するというような展開になります。
トリイが夫人の白い肩に焼印を押す残酷な場面は有名ですが、セットはジャポニズムの香りを放つ、エキゾティックな仕立てになっており、その中でトリイのサディスティックな面が強調されています。その後、事態を悟った夫は彼女の身代わりになって、自分がトリイを殺そうとしたと警察に出頭し、とらえられて裁判にかけられます。当然有罪の判決が下りますが、その瞬間に妻が夫をかばって真実を明かすことになります。真実を知ったときの人々の怒りは非常に迫力を持って描かれています。トリイをリンチしようと、人々の群れが押し寄せてくるわけです。でも、最終的には裁判そのものが取り下げられて、ハッピーエンドで終わります。
この映画ではハーディ夫人は非常に新しい女性、ニューウーマンとして描かれています。社会的にも性的にも自由を謳歌しており、独立心が強く、消費や快楽を追求し、さらには東洋趣味というおまけもついています。この時代には、上流階級の人々の中では着物を持っていることがステータスシンボルにもなっており、東洋特に日本がもてはやされていたのです。ところが、この作品では新しい女性をたしなめるような、そういう生き方は危険だからやめろというメッセージが非常に強く表れています。この少し前の時代には「真の女性」とは「家庭の天使」だと、女は妻であり母として家庭の中心にいなければいけないと考えられていたのです。映画では女はやはり「家庭の天使」でなくてはいけない、新しい女は危険な目に遭うというメッセージが強調されているのです。また、ハーディ氏は仕事主義で、家庭を顧みない夫なのですが、彼に対しては父権的な義務を回復するようにというメッセージが込められているようです。
トリイは、最初は非常に格好よく、エキゾティックな、消費と快楽に生きる都会的人物に描かれていますが、最終的には性的な脅威、白人女性をレイプする恐ろしい黄禍の側面をあらわにします。妻として母としてアメリカ国家を支えるべき白人女性をレイプされるということは国家社会にとっての脅威に他ならないのです。
一方、この作品によってアメリカ人女性の心をつかんだ雪洲は、その後スターダムにのし上がっていきます。この映画の明白なメッセージは、見ている側、特に女性たちにはそんなにストレートに伝わったわけではないようです。女たちの多くが危険な中に、ある種の魅力を感じとったのです。メッセージ性とは逆に「新しい女」のスリリングな生き方に魅了される女たちもいたのです。歌舞伎の演技を使った雪洲の押さえた演技は評価されていますが、これは言葉を使わなくてもよかったサイレントだったということも幸いしています。サイレントからトーキーになってくると、彼は俳優として難しい局面に立たされていくことになります。