2−1 人造人間 自己言及としての人造人間モチーフ
では、光または機械仕掛けがこの時代の、特に人造人間のモチーフにいかに働きかけているかという具体的なお話に行きたいと思います。
ドイツ表現主義時代の映画は、非常に怪奇的であるということで大体知られています。時代的にはほぼ1913年から1933年になりますが、今でも鑑賞するに足る傑作が1913年ごろから出てき始めており、1933年はヒトラーが政権を取った年ということで、映画人たちは皆亡命してアメリカに流れていってしまいます。そこでまた1つの時代を閉じたということになるわけですが、その間の映画をいくつかご紹介したいと思います。古い伝説の人間が蘇るみたいな映画が多いのですが、つまり話自体は古いものであって、伝説の映画化というような雰囲気があるのです。これらはいずれも映画というメディアを、動いているという感動を、十分に意識したものであるととらえてみたいと思います。
人造人間のモチーフということで、ちょっとわかりにくいかと思いますが、自己言及という言葉があります。映画というものが何をあらわしているのだろうかと考えたときに、例えばこの映画は恋愛物語ですねとか、この映画は悲劇ですねというように、それぞれ内容があると思います。でも、この自己言及とは映画が見せる内容自体が映画であるということで、動いているでしょうという内容を持っており、そういう意味での自己言及です。映画が映画自身を見ている、動くメディアというものが動きそのものを伝えているものとして、理解していただけるのではないかと思います。つまり、変わった人間が人造人間を作ったよ、変だねという話ではなくて、人間が動くということで、映画という新しいメディアを手にした制作者たちが、それでは動く人間を古い伝説から掘り起こしてきて作ろうではないか、というものではないかと思うのです。
人工の人間が生命を持つ、動くというテーマは、それ自体はそれほど新しいものではありません。例えばピグマリオンという話がありますが、それはもう伝説となっており、神話の時代からあるのです。彫刻家のピグマリオンがあまりにもきれいな女の人を彫り、それに恋をしてしまったので、自分の彫った女の人を人間にしてくださいと、女神様にお願いして犠牲を捧げたところ、神様が願いを聞き入れて人間にしてあげましたという話です。そのように物が人間になる、生命を持つ、動くというテーマが、映画という新しいメディアであらためて取り上げられるのは当然のことではないでしょうか。
それでは、第1番目として『ゴーレム』という作品を取り上げたいと思います。これは1920年なのですが、過渡期の作品として位置づけてみたいと思います。過渡期とは、それまでは映画というメディアはなく、何か話を知りたいと思ったらみんな本を読んでいたのですが、そのような文字メディアから新しい映画というメディアに移る時期ということです。
映画のストーリーを軽く紹介します。かなり古い時代ですが、16世紀のプラハ、ユダヤ人街では、ラビが民の危機を救おうとして、旧約聖書にも出てくるような伝説のゴーレムという巨人を蘇らせるというものです。この『ゴーレム』よりも前に、同じようなテーマで脚本が少し違っているものが2本作られているのですが、現存するのは結局1920年の『ゴーレム』だけです。1935年にはフランスのデュビビエ監督がやはり『巨人ゴーレム』というものを撮っており、繰り返し撮られた作品なのです。例えば日本の『大魔神』なども、同じような岩の巨人が生命を持つというテーマになっています。
この人造人間は、具体的には呪文を胸に付けると蘇生するという土人形です。ラビが一生懸命に土で人形をこしらえるのですが、それだけでは動きません。呪文を付けなければ動かないのですが、呪文とは文字です。文字を胸に付ければ動き出すということで、これは文字メディアの人造人間であり、私が過渡期であると言う根拠はそこなのです。胸に取り付けると蘇る呪文とは、映画にはあまりはっきり出てこないのですが、アルファベットで「emeth」という文字であり、「真理」という意味のヘブライ語です。ところが、これは伝説によっていろいろであり、額に付けるというものもあるのですが、「emeth」の「e」という一文字だけを削り落としてしまうと「死」という文字になってしまうので、人形はもとの土に戻ってしまうという伝説なのです。
というわけで、文字的な操作だけで生死が決まるというものですが、それが映画ではどのようになっているかを注目していただきたいと思います。つまり、人造人間のモチーフのときに見るポイントとはその切り替わりにあります。単なる物という存在の土人形が人間として動くようになる、そのスイッチポイントが注目すべきところです。
まずは呪文を教えてもらわなければいけません。精霊を呼び出し、呪文を教えてくれと願うのですが、これは本当に映画芸術を楽しませてくれる場面です。つまり、光で結界ができるのです。映像の中では文字すら光に還元されており、映像に組み込まれているということです。胸の星形のポイントも光で、映画を動かしている歯車のようなものを連想させます。また、蘇った人形は大抵手前へ真っすぐ歩いてくるのですが、映画的奥行きが楽しめるのではないかと思います。このように、光の結界を作り、魔術それ自体が映画術を意味していると読み解いてもいいのではないかと思います。
さて、今の『ゴーレム』の場合は石とか土などの物質が人間になるという人造人間でしたが、次の『ノスフェラトゥ』では土という実態すらもない陰のような存在で、陰となるとやはりスクリーン上の影をすぐに思い浮かべると思いますが、そのような吸血鬼の物語になります。
これは1922年のムルナウによる作品です。ムルナウ自体は非常に短命だったので、あまり多くはないのですが、『ノスフェラトゥ』という作品をもとにして、2000年にはアメリカで『シャドウ・オブ・バンパイヤ』という映画が撮られました。ジョン・マルコビッチ自身がムルナウの役を演じ、この映画がどんなふうに撮られたかを描いている、おもしろい映画になっていました。ムルナウ自身は『サンライズ』という作品で第1回のアカデミー賞を数部門受賞しており、非常に注目すべき作家なのですが、今ではあまり知られていないのが残念です。
映画のストーリーは、吸血鬼が蘇っていろいろ犠牲者を増やしていくというものです。この吸血鬼は美女に魅せられて夜明けになることに気づかなかったのですが、彼は朝日を浴びるとその存在が散ってしまい、滅びてしまうのです。そういう意味で、私が吸血鬼を引き受けましょうという美女の自己犠牲があったのです。吸血鬼は一度死んだ存在というのか、普段は眠っている陰の存在が朝日の光によって死ぬというストーリーであるとして、くくることができるのではないかと思います。そこで、死体が動くというわけです。この映画の場合には、その実態のなさは影によって表現されています。つまり、陰という存在が映画そのもののスクリーン上の影ではないかということなのです。
影の効果的な演出として、吸血鬼が中央に黒く立っている場面がありますが、そばには犠牲者の若者が立っており、彼の妻が自己犠牲になる美女です。この場面は既に影によって取り込まれていますが、大きな建物のアーチがこの場面を取り囲むことによって陰の存在を際だたせており、犠牲者たちがもう陰の存在の手中に陥っているということがわかる、そのような囲み方ではないかと思います。
また、もう少しうがった考え方をすれば、もともと原作は小説だったのですが、吸血鬼とは血を吸うものであり、血というものをインクと読み替えれば、これには少し前の文字メディアの言及があるのではないかと勘ぐれないこともないのです。
さて、次の『メトロポリス』では、光で命が与えられている存在というものを完全に作り上げています。1927年のフリッツ・ラングの作品です。
ストーリーは、未来社会で非常に清らかな聖女マリアを心の支えにして、つらい日々を送っている労働者階級がいるのですが、彼らがそんなに彼女のことを信頼しているのであれば、その信頼を逆手にとって制圧してしまおうと、資本家が科学者に命じて偽のマリアを作るというものです。
今はもっぱら人造人間である偽のマリアに注目しますが、この作品はそのほかにも大勢の人間、エキストラの使い方が非常に巧みであり、その面でも注目すべきものです。また、未来都市のセットが非常にすばらしくて、画期的だという評価も与えられています。
では、マリアというロボットを作り上げて、それがいかに生命を持つかというポイントですが、本物の人間マリアがこちらへと姿(魂)を映している場面があります。魂が映るのも、全部が光に還元されているということがわかるのではないかと思います。光のビームで蘇生するロボットなのです。
次は、ドイツの作品ではないのですが、光で作られる人間ということでは最も適当ではないかと思ったのが『フランケンシュタイン』です。これにはメアリ・シェリー原作という文字のメディアがあり、それと比較すると、いかに映画の産物であるかということが如実にわかるのではないかと思います。監督はジェームス・ホェールですが、1998年の『ゴッド・アンド・モンスター』という作品がホェール監督の晩年の様子を描いていました。
ストーリーはおなじみだと思います。母親が死んだのが非常にショックだったというフランケンシュタインが、永遠の生命を作ろうと、死体を継ぎ合わせて怪物を作るのです。フランケンシュタインは作った人の名前であって、怪物自体には名前がありません。この怪物は、光、つまり稲妻によって蘇生します。死体を継ぎ合わせるというおなじみのものですが、考えてみれば、これもフィルムを切り張りするという映画の編集作業を思い起こさせます。また、これはトーキーの作品ですが、怪物自体は言葉を全く話さないということで、この怪物はサイレント映画を指しているのではないかということがうかがわれます。
特殊な光を発見したということで指導教授に生命の秘密を解き明かし、雷が鳴り、稲妻にさらし、次にはもう立って歩いているという場面になりますが、やはり光が蘇生のための重要な要素でした。怪物はだんだん言うことを聞かなくなるので、フランケンシュタイン自らが逃げ出した怪物をつかまえに行かなければいけなくなり、最後の場面では風車小屋に逃げ込んだ怪物との死闘になります。
なぜ風車小屋なのかということをめぐっていろいろなことを言う人がいますが、ここではマルタ十字ということを指摘しておきたいと思います。先程のリュミエールの画期的なところは、ミシンの応用を使って光の当たったときにちょっと止まり、また次へとコマが送られていくということですが、そういう機械にマルタ十字が後に考案され、それが非常に重要な役割を果たすようになります。
マルタ十字とは特殊な形をした十字なのですが、それが最後の風車小屋を思い出させるし、そもそも手前にある送り穴にかかっていく歯車もくるくる回る風車を思い出させるものであるし、いずれにせよ、これは映画のことを言っているのかと思わざるを得ないような場面ではないかと思いました。片や原作では怪物は非常によく話すので、名前もない怪物が自分の存在を主張するようになると、話すことしかない、つまり文字メディアの産物がメアリ・シェリーの怪物だということになります。