愛知県ビデオコンテンツ 細井平洲学者として生きる〜江戸・嚶鳴館時代〜
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 ◆ 嚶鳴館を開くまで
淡淵先生の死  独立して次の年、江戸に出てから病気がちだった淡淵先生が亡くなりました。学者として独立し、これからという時に目標であった先生をなくしてしまったのです。母親に続いて淡淵先生にも先立たれ、平洲の悲しみはとても深いものでした。

 しかし、悲しんでばかりはいられませんでした。淡淵先生について学んでいた多くの学生たちが、平洲の元に集まり教えを求めてきたのです。そこで、手狭になった塾を神田の柳原に移し、それを機に名前を嚶鳴館としました。 嚶鳴館

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