『不可解な他者』表象 ―ハリウッド映画にみるアジア人― 
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『サヨナラ』

 第2次世界大戦後には、ハリウッド映画がアジア人を描くときに大きな変化が見られますが、それを「黄禍からモデル・マイノリティへ」という流れでとらえてみます。ここではジェイムス・ミッチェナー原作の小説を映画化した『サヨナラ』(1956年)という作品を見たいと思います。
 これは第2次世界大戦後の朝鮮戦争中の日本が主な舞台です。ロイ・グルーヴァー大佐をマーロン・ブランドが、相手役として登場するハナオギ(宝塚をモデルにした歌劇団マツバヤシの男役)を日系アメリカ人女優、高美以子が演じています。脇役としてロイの部下ケリーをレッド・バトンズが、ナカムラという女形の歌舞伎俳優をリカルド・モンタルバンが演じています。モンタルバンはヨーロッパ出身ではなく、ラテンアメリカ出身の白人男性です。アイリーンという白人女性も登場してます。
 この映画の主要テーマは異人種間結婚にあります。これまで決してハッピーエンドで終わることがなかった異人種間結婚が、この作品ではハッピーエンドに終わります。第二次大戦後、かつて敵国であった日本が、共産主義圏に対抗するためのアジアの重要なパートナーとして浮上して来ます。ロイ・グルーヴァーとハナオギの結婚はまさに新しい日米関係を象徴的に表すものです。実際に日本ロケが敢行され、歌舞伎とか、文楽などの伝統芸術も紹介されていて、日本旅行のガイドにもなりそうな作品なのです。しかし、この新しい形のロマンスの裏にはいろいろ複雑な問題が見え隠れしており、その辺を考えていきたいと思います。
 古きよき日本の風景を映す情緒たっぷりのオープニングに始まります。最初のシーンは韓国のアメリカ軍基地が舞台です。朝鮮戦争を戦う主人公ロイはジェット機のエースパイロットでエリート軍人という設定なのですが、「2機撃ち落としたぞ」などと空軍の同僚にほめられても、彼は全然喜んでいません。この時点で彼は戦争に疑問を抱き、戦争に疲れているように見えます。そこで、彼は休養を兼ねて神戸に赴任を命ぜられます。神戸で彼を待ち受けている婚約者アイリーンもエリート軍人の娘で、2人の結婚は周囲に喜ばれており、彼女も結婚を急いでいるのですが、ロイの方は気持ちがいまいちうまく乗っていかない状態にあります。その理由はいろいろありますが、アイリーンが男を尻に敷くようなタイプの非常に強い女性に描かれており、それに彼が尻込みしているところがあって、彼女の性的なパワーみたいなものにも少々恐れをなしているようです。
 二人が歌舞伎を見に行くシーンでは、女形の歌舞伎役者ナカムラがイエロー・フェイスで演じられています。男性的な肉体が女性、女形へと変化していくプロセスが映し出されています。ナカムラ役のリカルド・モンタルバンは、女形をけっこううまく演じていますが、違和感はぬぐえません。ここへはアイリーンがロイを誘ったのですが、彼女とキスをかわしてもロイはあまりうれしそうではありません。男性が女役を演じる歌舞伎の両性具有的な面が、強調されています。
 ロイとアイリーンは婚約関係にありますが、それと対照的なもう1つのカップルがあり、これがケリーとカツミです。ロイの部下にあたるケリーは日本人女性のカツミと恋愛し、婚約し、そして結婚をしようとしています。しかし、当時のアメリカ軍は日本人女性と結婚することを厳しく禁止していました。にもかかわらず、彼らはそれを押し切って結婚するわけです。ロイもそのとき結婚の介添人を務めますが、最初はなぜ日本人女性なんかと結婚するのかとケリーの気持ちを理解せず、日本人女性に対して差別的な態度をとっています。しかしケリーとカツミの真摯な愛の姿を見て、次第に2人に理解を示すようになっていきます。それと同時に、宝塚をモデルとするマツバヤシの男役スター、ハナオギに彼自身も一目惚れして、彼女との恋愛関係に入っていくというプロセスがあります。
 彼が最初にハナオギを見るシーンでは、着物姿の女性たちの中で彼女だけが男装して登場します。ただ、ここでのショットは上半身だけが強調されており、彼女のパンツルックの部分は映されていません。これはロイが男装に惑わされず彼女の男性的な部分よりも、女性的な部分に引かれて恋に落ちたことを暗示しているのではないかと思います。ロイはカツミを通してハナオギに近づきます。マツバヤシの大ファンであるカツミは、ファンクラブの会長のような立場であるためにハナオギとも近い関係にあり、ハナオギにロイを紹介します。
 アメリカとの戦争で父を失ったハナオギはアメリカ人に対してはあまりいい印象を持っていないのですが、ロイは彼女の気を引こうとマツバヤシに通うハナオギを毎日のように待ち受けます。そのとき、ハナオギは常に男装しているところに注目をしていただきたいのです。ハナオギの心を射止めるべく彼は日本語の練習も始めます。最終的にロイは彼女の心をつかむわけですが、最初のデートはカツミとケリーの家で行われます。そのとき以降、つまり2人の恋愛が成立してからは、彼女は決して男装の姿ではあらわれません。
 映画の中では、日本人女性は男に尽くす従順な女性として描かれており、特にカツミはそうです。お風呂の場面などではまさに至れり尽くせりのサービスぶりを発揮しています。ハナオギといい関係になったロイは、同時に日本にもとけ込んでいるように感じられます。ロイとハナオギはいつもこの2人の家で逢い引きし、ため息が出るようなラブシーンが展開されます。その後いろいろな妨害や難しいこともありますが、結局2人は結婚を決意するハッピーエンドに終わります。
 映画の中で、ロイとハナオギがどのように変化していくかがとても重要だと思います。最初は日本人女性なんかという感じで人種差別的に描かれているロイは、同時に男としての自信を喪失していました。それは戦争への疑問であったり、アイリーンに対する性的かつ心理的恐怖感で表現されていたりします。また、ロイのようにアイリーンという婚約者がいるのに、いつまでも結婚をだらだら引き延ばしていると、いい年をしているのに結婚しないでいると、あいつは同性愛者ではないかというような厳しい世間の目にさらされて、男たちはパニックを感じてしまうということがあります。最近ではそれをホモセクシャル・パニックという言葉であらわしたりします。つまり、家父長制に基づく正しい結婚観のようなものが、いかに男性にもプレッシャーを与えているかということが問題にされるのです。この映画では歌舞伎は日本紹介の意味もありますが、別の意味ではロイのホモセクシャル・パニック、ロイが自分は同性愛かもしれないという不安の中にいることを、男性性・女性性の間で揺れ動いていることを暗示させるために、これを使っているのではないかと解釈することもできると思います。
 彼はハナオギとの関係を通じて非常に変化していきます。最終的には人種的な寛容さを得ますし、それと同時に、異性愛の男性としての自信も回復することになります。一方ハナオギも、父親を戦争で殺されたことでアメリカに対する憎しみを持っていましが、ロイとの恋愛を通してアメリカを受け入れ、アメリカに同化する女性へと変わっていきます。また、スターである彼女は自立した女性として最初は描かれており、男装によって両性具有的な側面も示されていたのです。しかし、ついにはスターの座を捨てて、妻であり母であることを選び取るわけです。しかも、アイリーンの強さとは対照的に、芯は強いが結局のところ男を立て男に従うというステレオタイプ的日本女性像を明らかにしてゆきます。
 この映画にはほかにも問題があります。ロイとハナオギはハッピーエンディングですが、実はケリーとカツミは心中をしてしまうのです。というのは、軍の方から圧力を受けていたケリーは、日本人女性と結婚するのであれば、お前をより厳しい戦地に送るぞと上層部から言い渡され、それに将来を悲観した2人は死の道を選ぶのです。文楽の心中ものを見た後に彼らがそれをなぞるように死ぬという設定になっています。なぜ2人は死ななければいけなかったのか。その大きな要因の1つは、ケリーの属する階級にあると思います。ケリーは主流アメリカのアングロサクソンではなくて、アイルランド系の労働者階級出身の人間として描かれています。それに対して、ロイは南部の貴族階級出身のエリートなのです。ケリーとカツミが死の道を選ばなければいけなかった理由の1つにある経済的な問題は、やはり大きいと思います。貧富の差、階級の問題がここでは非常に問題化されてくるのではないでしょうか。
 もう1つは、アイリーンとナカムラとの関係です。二人が恋愛関係へ向かう暗示があるものの、結局それは不明瞭な、あいまいなままで終わってしまいます。白人男性とアジア人女性との関係は許されても白人女性とアジア人男性の関係は、いまだにタブーなのだということを強く感じさせるわけです。ナカムラが白人によって演じられていることも、白人女性の恋愛の相手をアジア人に演じさせることにはまだ抵抗があったということを示しているようにも思えます。
 このようなことから考えますと、第2次世界大戦から冷戦へ向けて動いていくアメリカの当時の政治性が、この映画の裏に透けて見えるのではないかという気がします。第2次世界大戦では、民主主義とファシズムとの対決を強調し、アメリカは民主主義を掲げて戦争をしました。そのときアメリカは、国内の人種差別という非民主的な問題を何とか解決しなければいけないと考え始めます。さまざまな人種の融和を図るように動いていくのです。しかし、共産主義と対決する冷戦期に入って、50年代にはマッカーシズムが引き起こされます。これは、共産主義を弾圧するという非常に非民主的な動きです。マッカーシズムのときには共産主義者だけでなく同性愛者も摘発されたと言われています。父権制をおびやかす同性愛を弾圧する動きがあったのです。また、人種的マイノリティーの人たちに対しては白人アメリカに習えと、主流アメリカに同化せよというメッセージを強く出していく時代だと思います。『サヨナラ』はまさにこの冷戦期に作られた映画なのです。
 この時期、アメリカ国内ではアジア人はモデル・マイノリティとして格上げされてゆきます。アジア人は従順さと勤勉によって成功を収めている、他の人種的マイノリティーもこれに見習えというメッセージが広がってゆくのです。しかし、アジア人を従順で無害な存在だと見る視線は、ロイがハナオギを見る視線と重なってゆくのではないでしょうか。アジアは男らしいアメリカにつくす妻でしかありえないわけです。
 また、一方では50年代後半から黒人を中心として公民権運動が非常に盛り上がっていました。モデル・マイノリティーのメッセージには、従順なアジア人を見習いなさいと、黙って言うとおりにアメリカに同化していれば成功できるじゃないかというように、黒人たちの差別に立ち向かう政治的動きに牽制を加える意図も含んでいるのです。これまで見てきたように、実際にはアジア人もずっと人種差別を受けていました。にもかかわらず、アジア人と黒人たちの人種差別に対する共闘を、手と手を携えていきましょうというような動きを、モデル・マイノリティというアジア人の位置づけは断ってしまう効果も持っているのです。
 イエロー・ペリルからモデル・マイノリティへと、戦後はアジア人に対する描き方が改善されたように思えるのですが、実際にはそうではないわけです。モデル・マイノリティもイエロー・ペリルの流れの一環であり、黄色いわざわいとして、アジア人を劣った危険なものとして見る黄禍思想のまなざしは、モデル・マイノリティという言説の中にもまだ生きていること。そこのところをよくよく注意しなくてはいけないのではないかと思います。

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