思春期の挫折と成長 
もどる  目次へ  すすむ  
 自立・共存

 子どもが依存している時間(第一、第二幕)の間に自立力の基礎を身に付けさせることが大切です。第三幕を生き抜くだけの自立力の基礎でいいのです。これを身に付けておかないと、本人にとって不幸です。このときに赤ん坊のような弱さしかなかったら、大海原に放り出されて生き延びれません。自立というのは根限り自分が自分であること、個の孤独に耐えることです。自分は一人なのです。「私」という人間が自立して、外の世界と絶えずつながりを保ちながら立っています。今何を考え、何を感じ、どのような意欲を持っているかは、「私」だけのものです。誰にも分かってもらえないし、誰にもどうにもしてもらえないし、させもできないのです。自分は自分ですから、自立は外が支えられないものです。
 『自』の付くものは全部自立のもとです。自分がかわいくて大切に生きていこうと思うのは「自己愛」です。例えば、砂漠に不時着をして水が一滴もなければ、自己愛のない人は、その瞬間にもう死が待ち構えています。ところが大方の人は自分の命が大切だから、少しでも前に進んで水を探そうと思います。これが自己愛です。
 自分をかわいいと思い、自分の命を愛し、自分の命を尊ぶということは「自尊心」です。プライドと訳します。自分が虫けらみたいなもので、くだらないものですと口で言っても結構です。でも、心の中で思ってはいけません。自分はどんなに人に蔑まされようとも、私は私であるという自尊のぎりぎりの何かを核に持っていないものは死んでしまいます。「自尊心」は自立の重要な要因です。
 「自信」もそうです。自己への信仰です。私は私としてなかなかのものであるという信ずる気持ちがなかったら自立できません。こういう『自』の付くものはみんな自立の要因、要素となります。でも、しばしば自尊心は傷つきますし、自信は揺らぎます。だから、自分を抱き締めて自分をかわいがらなかったら誰がかわいがってくれるかと思うのです。これが自立という要因に全部入ってくるのです。逆に言いますと、一人一人の子どもが成人式を迎えるときに、心の内側に力強く自立を蓄えてなかったら大海原に出られないのです。
 ところで、本航海でもう一つ大事なことがあります。それは共存です。大海原ではみんな一人ずつ船を持って航海しています。何億人かが同じ大気を吸い、同じ海原に身を寄せています。その時人を受け入れて、人と生きていく力がなかったら悲劇です。私は一人でいいのですといくら豪語してもだめです。みんなが歩く大地で歩き、みんなとともに大気を吸って生きていくしかありません。電気も、水道も、ガスも自分だけのものではありません。つまり自分がかわいいということは他の人も生かしてあげなければ自分も生きていけないということです。追い詰められた人が自暴自棄になってポンと危険なスイッチをひねったら、いくら「私」がこの瞬間自立していても自分も滅びます。だから、人とともに生きる共存、共感、共生が大切です。もっと普通の言葉で言えば愛です。人を受け入れて、人を生かしてあげようと思う気持ちも育っていないと第三幕は危うくなります。

 ヤマアラシのジレンマ

 人間には、一人でいるという力(自立力)と人と一緒に生きていこうという思い(共存力)が、両方ともバランスよく必要です。私の好きな言葉に「ヤマアラシのジレンマ」という表現があります。自分を愛し、しかも人をも愛することのむずかしさの例えです。これはドイツの哲学者、ショーペンハウワーが最初に述べた寓話です。『寒い寒い冬の朝、ヤマアラシのカップルがいました。寒くて孤独で、一人ぼっちでいるのは耐えられない。そうしたときに普通、ごく自然に近づいて抱き合います。そして相手の暖かさを自分に取り入れたり、そして自分の暖かさを相手に与えたりします。よく生きものは皆抱き合います。結合しようとします。ところがヤマアラシのカップルの場合とげがあります。とげがあって、あんまり固く抱き合い過ぎますと、相手のとげが自分を刺して、痛いのです。見たら相手も痛がっています。ああ、そんなに一緒にいたら痛いぞと思って飛び離れます。飛び離れると確かにもう痛みはありません。しかし寂しくなります。寒くなります。孤独です。だからまたそろそろと近付きます。そしてまた、あんまり無謀な近付き方をすると、自分が苦しくなってきて、また離れます・・・・・・』という内容です。ヤマアラシのジレンマとは、自分がかわいいという思いと、人(夫婦、恋人、親子、同僚、ご近所等)と一緒に生きていきたいという思いとの間のちょうどいい距離をカップルが探し続けるという例えです。
 私はニューヨークに1975年から3年ほど住んでいました。私の家の近くに、「ヤマアラシのジレンマ」こそが人の一生であると思って、本を著した70歳過ぎの精神科医がいらっしゃいました。アメリカでも有名なそのお医者さんに出会えたことを私は非常に誇りに思いました。そのドクターは、50年来連れ添った奥様とご一緒に住んでいました。ところが私がニューヨークを去るときに、さよならパーティをしましたが、めずらしく二人が来られませんでした。日本食がお好きで焼き鳥、てんぷらと耳元でささやくと、どんな苦労をしてでも必ず我が家に飛んで来られていた人が来られなかったので、ご病気かなと心配をしました。でも、そのお二人はその年離婚をされたのです。そして、その翌年には旦那さんは再婚をされました。70代の後半で勇気あることだと思いました。
 再び私がニューヨークに行ったとき、その先生に会いに行きました。豪壮な邸宅は奥さんに全部渡されて、狭いアパートに若いきれいな奥さんと住んでおられました。私は最初の奥さんが大変好きで仲良しでしたから、二度目の奥さんはきれいでもドクターにとってはいい相手とは思えませんでした。帰るとき、ドクターが出口まで送ってくださいまして、言われた言葉が忘れられないのです。彼が、「あなたも分かっているように、私の二度目の結婚は失敗でした」とおっしゃられるのを聞きながら、生きる達人でも失敗するのかと思いました。けれども、自分は少しも後悔をしていないと続けられたのです。アメリカ人の一番すばらしいところかもしれません。アメリカ人というのは自分が本当に失敗をしたり、大きな傷口を持っていたりしても、その傷をなめてでも前に進むとスタインベックが書いています。これはアメリカ人の良さです。非常に現実肯定的で、失敗だと認めながらも後悔をしないのです。さて彼はこう言われました。「祥子よ、これが生きることである。自分はいくつになろうと自分がかわいいので、自分の感性に従って生きていく。前の妻は大変グッドなワイフであった。しかし今の彼女に出会ったときに、私の人生はもっとベターないい人生が自分に訪れると思ったので、グッドに綿々としているわけにはいかなかった」と。いかにもアメリカ人らしい表現です。自分にとって、ベターな人生を生きていきたいというのは自分のエゴであるとおっしゃるのです。やっぱり私は自分に忠実に生きたい。そして人を愛することもやめたくないとおっしゃいました。現にその二度目の奥さんとも離婚をなさって、その後もなおかつ人を愛することを止めず浮名を流されていたそうです。ドクターはもうお亡くなりになりましたから、それが最後の別れになりましたが、私は非常に大きなことを教えて頂いたと思っています。
 つまり、人生の勝負は死ぬときに、自分自身が存分に生きてきたと思えるかどうかということです。それには、自分をかわいいと思うことをやめないことです。自分が自分をかわいがらない限り誰もかわいがってくれません。私は自分を抱きしめていとおしんで、自分を大切に生きていきたいというエゴの塊のような自分を持ち続けたい。しかも人をも愛したいのです。このように自分が大切で人も愛することが、いつもきれいにいくはずがないという前提に立ち、それでもなお最後までその思いを枯渇させないことです。これが生きることの目標であると、その先生から伺ったような気がします。だから、成功していた時代の彼よりも、自分自身を失敗であったとおっしゃりながらも、自分を愛し、人を愛することもやめないと言い続けておられた先生の方が、私はもっと尊敬できるという気がしています。人と付き合って失敗をするのが恐いから、もう二度と結婚や恋はしないとか、二度と親子なんかやるものかなどと思うとしたら、これは生きることを下りることです。
 だんだん年を取ってくたびれてくると、伸縮のきかない輪ゴムのようになります。でも、最後までやっぱり自分がかわいいという思いと人と結びつきたいという気持ちを、持ち続けたいと思っています。今の若い人々の中には自分ばっかりで、人と共存することがとても下手な人がいます。人が近づいてきて自分をちょっとでも傷つけたらもうだめだという人がいます。あの人が私の悪口を言ったり、私を蔑んだりしたから、価値もない私は死ぬしかないという弾力性のない固さなのです。自分を愛し、人を愛するという難しさに対してしなやかに立ち向かおうとする底力を持たなければいけません。
 例えば私は今、新設の大学に勤めています。新しい大学をつくることは大変です。私なりの構想はありますので、会議で自己主張を強くします。反対相手をぐいぐい押しやる時、私が相手の中に食い込んでいくのが目に見えるようです。相手は私のとげにへき易しながら攻撃的ないら立ちと非常に悪意と憎悪に満ちた顔さえします。終わってから、私が強すぎたので、この次は少し手加減しようと思います。そして、自己主張をしたいという自分のはやる心を抑えると、今度は向こうが攻めてきます。相手のとげがぐっぐっと入ってきますが、ぐっと耐えてさようでございますとか、まあ何ていいお考えとか、心にも思わないことに賛成します。相手のとげがぐんぐん刺さってくるのを感じます。ところが夜帰って思い返すと、自分がかわいそうではないかと自分がぐずぐず文句を言い出します。もん死せんばかりに悔しくて、この次は絶対に自分の考えを言ってやろうと思います。そして次に、ギャーと強く出ていって相手がグワーッと苦しむ。そして、次はちょっと引き下がって・・・・・・ということです。でもこれを一生繰り返していきたいのです。これから下りるということは生きることを下りることだと思います。
 親子の場合でも同じです。私には娘が二人います。上の子は非常に感性の鋭い子で、相手の痛いところをよく知っていて、フェンシングの試合をしているかのように、一番痛いところを突いてきます。親といえども痛いから、やっぱり突き返します。相手の一番痛いところはどこかなと思ってやり合います。やり合いながらお互いに言いたいことを言い合います。しかし、相手にあまり切っ先を強く突きこんだと思うと、次には少し調節します。お互いにそれを10年ほどやりました。その娘らも彼女らなりに第三幕に入りました。どのようなけんかをしても親と子、夫婦、あるいは恋人同士が、互いに愛することをやめないという底力のようなものを、20代の彼女たちが持っていることを親として願っています。

もどる  目次へ  すすむ