平成28年度 愛知県史を語る会

 愛知県では全58巻の「愛知県史」の編さんに取り組んでいます。平成28年3月には初の通史編『通史編1 原始・古代』を刊行しました。
 この続編となる『通史編2 中世1』『通史編3 中世2・織豊』を平成30年3月に刊行します。現在、刊行に向け、執筆並びに編集作業を進めていますが、両巻の執筆者による講演を開催しました。

<講演テーマ>
 中世・織豊の尾張・三河

<開催日>
 平成28年8月20日(土)

中世の尾張・三河−東と西の境界地域−

名古屋大学名誉教授 稲葉伸道
 日本の中世は古代を前提として成立しています。単純にいえば、古代とは天皇一貴族を支配者とする統治システムの時代であり、中世はそのシステムが改編されつつ継続するとともに、新しく幕府という鎌倉殿・室町殿一武士を支配者とする統治システムが生まれた時代でありました。十二世紀末、日本列島上に京都だけでなく鎌倉という政治拠点が登場したことによって、人や物が京都と鎌倉という二つの首都を行き交う時代が到来したのです。尾張と三河はちょうど東西の中間点に位置します。それは治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝の内乱において大きな軍事的衝突がこの地域で起こったことによく表れていますが、仏教文化の側面においても、この地域で活動した無住や能信などの仏教僧の軌跡をたどると、宗教的・文化的中心地である京都だけではなく東国への志向も強いことがみえてきます。しかし、こうした東西の中間地帯という特徴は室町時代以降大きく変化していきます。その変化についても言及したいと思います。

戦国・織豊期の尾張・三河

中京大学教授 播磨良紀
 愛知県史の歴史分野の部会では、一般的な時代区分である古代・中世・近世・近代・現代の5区分の部会に加えて織豊部会が設けられています。それは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった天下人を輩出した愛知県にとって特色ある重要な時期であったからでした。この時期は、日本や愛知県の歴史の中でもさまざまな出来事が起こりました。当該期の資料編『織豊1〜3』には数多くの史料が収録されています。
 尾張・三河の歴史史料が蒐集された『愛知県史』資料編が刊行されて、さまざまな研究が出され新たな愛知県の歴史像が明らかになりつつあります。そうした成果をもとに、今回の『通史編3』が現在編さんされています。戦国から織豊期という時代の尾張・三河の歴史像を、当時の日本の中でのこの地域の位置づけを考えながらお話しできればと思います。

京・鎌倉と熱田大宮司家

南山大学教授 青山幹哉
 「熱田大宮司の邸宅は、京の六条にあった」と言うと、皆さんは「えっ、名古屋じゃないの?」と思われるかもしれませんね。実際には院政期、熱田社のトップは、国元に居るより在京していることの方が多かったのです。
 古代では、地方豪族もそれなりの独自性をもって存続することが可能でした。しかし、荘園公領制の展開と院政の進展により、地方豪族も中央諸権門と強く結びつかなければ生き残れなくなります。豪族尾張氏も三河国額田郡の藤原氏と合体し、熱田社領を天皇家領とすることで、新時代に対応していったわけです。さらに外孫の源頼朝が鎌倉幕府を樹立したことは、大宮司家が「武士」へと転身する好機となりました。そして、承久の乱という危機をなんとか乗り越えた大宮司家は、鎌倉北条氏と良好な関係を作るという、次なる課題に立ち向かいます。
 さあ、中央が強い力をもって地方に臨む時代、熱田社がどのように苦闘し、生き延びていったか、一緒に歴史を読み直してみましょう。

鷹狩りに見る豊臣政権と尾張・三河−吉良での鷹狩りと領国の境界をめぐって−

首都大学東京教授 谷口央
 織田信長は天正2(1574)・4・5・6年に、同7・8年には徳川家康が、吉良(西尾)で鷹狩りをしています。このように吉良では頻繁に鷹狩りが行われ、それは信長に見るように、支配領域を越えて行われていました。
 豊臣政権になってからも、天正19年・文禄2年(1593)に豊臣秀吉による鷹狩りが確認できます。この鷹狩りは、全国的な豊臣政権の情勢を見る上でも注目される行為であったことに気付きます。それは、東北地方での豊臣政権の体制作りであった奥州仕置や、秀吉から秀次へ、秀次から秀頼へと言った豊臣政権の代替わりです。また文禄2年の鷹狩りに関連して、直後に矢作川の提普請がありましたが、それは同時期にあった太閤検地も合わせて考えると、尾張国と三河国の支配区分についての注目すべき事柄が確認できます。
 本報告では、上記に注目して、豊臣政権期の尾張・三河について検討していきます。

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