現代哲学からのアプローチ・・・「グローバル化する現代と伝統文化」 
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「意味を求めること」の意味


 ポストモダンという思想の潮流があります。これは近代の哲学がある意味克服されたという主張であり、主観性を否定し、自分の意味を求める主体を否定する哲学の立場です。「もう神々は死んだ」と宣言をしたニーチェに先駆が見られるのですが、現代のドイツの社会学者(ボルツ)は、「意味を求めること」自体に「意味」は無い、「意味」や意味の喪失からくる「不安」を口にすることは、意味を喪失した現代世界の複雑性そのものから逃避し、「近代世界の複雑性と不確定性に適応できない者の症候である」としました。しかし人間は、「仮想現実のなかで可能性に向けてデザインする」、ある意味ではフィクションとして自分で作り上げる存在です。現実は不確定性、複雑性の世界です。意味が喪失したことからくる不安を語ることは、彼の言う「意味」が無いのです。「その確定した意味を見出すのではなく、自分自身が自分自身である意味で、フィクションをフィクションとしてデザインする力が現代には必要になる」と、解かりずらい主張をするのですが、それは、近代の人間がやってきた自分の世界というものを自分の物語で作っていく限界を示しながら、そして、それをたえず無意味だといいながら、人間のサガとしてあるフィクションをフィクションとして作っていくことが、現代の生きる我々には必要だということです。
 この論理をわかりやすくいうと「意味を〔他に〕求めるから、意味の喪失が起こるのであり、自ら意味を作り上げていくことが必要である」ということになります。
ニーチェ
『永遠回帰』のニヒリズムとは?

 今までの議論のなかで明らかになったのは、世界が複雑になって、それに対して不安が出てくることは、複雑さや不確定性に対する対処ができないということです。世界が複雑化しているのに対して対処しなければいけません。複雑性というものをなるべく少なくさせるというのは「意味」です。
 何か釈然としないこの論理を解きほぐすために、二つの「意味」を区別したいと思います。
 これまでは「意味」と言うことで、
 (1) <世界の意味づけの際の価値体系>という意味
 (2) 個々の人間の存在の「意味」という時の実存的「意味」概念
 が同時に語られていました。前者はある種の普遍性を有する「意味」概念であり、ルーマン(社会学者)の表現を借りれば「複雑性の縮減としての意味」なる概念に当たります。つまり人間が世界に対して投げかける意味によって、ひとつの物語にする形で複雑性の世界を生きていくということです。自分自身の意味・世界の意味・自分自身の生きる意味は大きく違うだろうし、自分自身の存在の意味は、また別の現代人の大問題として、でてくるだろうというものです。
 そこで、この二つの「意味」の概念の立て分けに関して、フランクル【(Viktor E. Frankl)精神分析医学者】の次の言葉を参考にしたいと思います。
 「我々は、実存的虚無の根底には、その部分的原因という意味で、伝統の喪失があるという前提から出発した。しかし、伝統とともに、その伝統が伝えてきた意味もまた消え去らねばならないのか。その問いは、ノーである。なぜなら伝統の喪失が関わるのは意味ではなく、価値に関してであるからだ。意味は、伝統の崩壊から免れている。すなわち、意味とはその都度何か一回きりのものであり、唯一のものであり、その都度初めて発見されるべきものである。」そして、「伝統が消え去っても、生の意味は存在し続け、かつそういうものを追い求める。そういうものに対して希求する。それが人間の本質である。」と。
 ここで明らかなように、ポストモダンの社会学者やフランクルも、個人としての実存、あるいは伝統が喪失して他に求めるのではなくて、自分自身で作り上げて、存在として徹する立場で意味を求めていっています。ここで伝統が全く現代において力を失っているのか、つまり複雑化し、不透明な時代において、自分の存在の意味を確認する時に、伝統文化といえるものを手がかりに、求めることができないかどうかと考えてみたいのです。

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