“精神病者”の権利はなかったのか?―ヨーロッパ精神医療史の落穂拾い― 
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【ゲールの精神病者受け入れシステム】

 では、すべての精神病者がゲールの家庭看護のシステムに乗ることができたのでしょうか。
 フランスの哲学者、ミシェル・フーコーという人が『狂気の歴史』という本の中で、社会から排除された精神病者が「阿呆船」という船に乗せられて、ゲールという「奇蹟を期待する神聖な空間の中に閉じ込められた」と言っています。しかし実際には、やみくもにゲールに精神病者が連れてこられても、ゲールがそれを受け入れることはなかったのです。そこで次にどのようにしてこの精神病者をさばいていたのか、という話に行きたいと思います。
 聖ディンプナ教会の巡礼精神病者の受け入れシステムが形式的に整ったのは、教会参事会が組織され始めた1532年と言われています。この教会参事会が精神病者の世話を正式に担当し、ノベナの窓口となって、家庭看護を行う里親もここで紹介していました。けれども多くの巡礼者がゲールに流入して、場合によっては長期に滞在するということは、聖ディンプナ教会参事会と里親との関係だけではすまない問題を含んでいました。例えば、聖ディンプナ教会自体は、ゲールの聖アマンズ教会というものの小教区内に位置しています。教会の縄張りがあるんですね。2つの教会の利害は対立していました。というのも、聖ディンプナ教会では、巡礼者に儀式を行ったり、死んだ患者を埋葬する権利を持っていたんですけど、これは本来、聖アマンズ教会が行うべき仕事であって、業務を侵害しているんです。この対立というのがずっと長く続くわけです。
13世紀以降のゲールの自治および救貧組織
 次に重要なのは、地方役人の役割です。ゲールは、13世紀から18世紀まで、封建領主から自治権を獲得した自治体として発展していました。領主から任命を受けた代官と、7人の参審人によって統治されていました。ゲールの代官や参審人は、貧困者がゲールに流入して、自治体の財政負担になることを非常に危惧していました。地方役人自身もメンバーに加わっている、「貧者の食卓」という組織があるのですが、この組織の負担になってはいけないということですね。この「貧者の食卓」というのは、中世以降に南ネーデルランドや北フランスで成立した救貧組織です。「貧者の食卓」が援助するのは、あくまで小教区の中の住民であって、単なる巡礼者、旅行者というのは対象外なんです。ゲールでノベナを受けて里親に滞在する患者というのは、保証人の手紙が必要で、扶養費がもし払えなくなった場合でも、「貧者の食卓」には費用負担をかけないということを示さなければなりませんでした。ゲールへの定住化とか、巡礼者の流入というのは非常に厳しくコントロールされていました。一方興味深いことに、いったんゲールのシステムに乗ることができた精神病者というのは、儀式を受けて、民家で世話を受けるだけではなくて、一種の特権が与えられていました。例えば精神病者であれば、犯した罪が免責になったり減刑されたり、あるいは自殺した場合にも、教会での埋葬が許されたというわけです。

精神病者のゲールへの流入経路
 ところが、17世紀の終わりごろから、ゲールのシステムに変化が生じ始めます。一言でいえば、宗教性の希薄化です。精神病者の世話をする民家というインフラに目をつけたアントワープ、ブリュッセルといった大都市の「貧者の食卓」は、大量の貧困精神病患者をゲールに送り込んでくるようになりました。患者のゲールでの滞在費はすべて、送り出した都市の「貧者の食卓」が負担していました。ゲールにとっては、スポンサーつきの、安心して受け入れられる精神病者です。一方これらの患者を送る側の都市の事情としては、増加する貧困精神病者を、自分の町の施設では収容しきれなくなっていて、ゲールでの世話料も安上がりで済むという経済性も魅力として映りました。図で見るように、1532年に教会参事会ができたときの体制であれば、患者の窓口は聖ディンプナ教会の参事会でした。これが患者にノベナを実施して、患者が滞在する民家を紹介していました。ところが17世紀末以降、都市の貧困患者は、教会参事会を通過せず、ノベナも行わず、直接民家に滞在するようになってきます。聖ディンプナ教会への信仰自体は衰えることはないんですけど、ゲールに滞在する患者の性格が変わることで、教会での宗教儀式を中核とするゲールの治療システムは衰退していきます。逆にこのことが、近代以降もゲールが発展していくための素地を作ったといえます。

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