“精神病者”の権利はなかったのか?―ヨーロッパ精神医療史の落穂拾い― 
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ヨーロッパの精神医療史〜ベルギーのゲール〜

【ゲールの由来〜聖ディンプナ伝〜】

 やっと本題に入りたいと思います。本題は、「ヨーロッパ精神医療史の落穂拾い」という副題にあるように、ヨーロッパの話題です。しばらく堅苦しい精神障害者の人権ということは忘れて、私がここ数年取り組んでいる、ベルギーのゲール(Geel)という町の歴史を中心に、数百年前の精神病者の日常を追っていきます。
ベルギー全図
ベルギー地図
 ゲールは、ベルギーの代表的な巡礼地の一つですが、中でも、精神病者の巡礼地として、中世から知られているものです。実は巡礼地にはそれぞれ得意とする分野があって、ゲールと同じように、精神病によく効くとされた巡礼地が少なくありません。地図では、ゲールとニノベ、ロンセが赤い字で示してあります。巡礼の目的の一つは、聖遺物にお参りをすることでした。聖遺物とは、聖人の遺骨や遺品のことです。この聖遺物には絶大な治癒力があると考えられていました。聖遺物に触ったり、近寄るだけで病気が治ってしまう、と考えられていましたし、実際治ったという記録が本になって巡礼地の教会に残されているのが通例です。
 ゲールは中世に始まる精神病者の巡礼地の一つです。ベルギーの港町アントワープから東へ鉄道で50分くらいのところにあります。ゲールの守護聖人は、聖ディンプナという女性です。この聖ディンプナには伝説があります。
 ディンプナはアイルランドの王の娘でした。王である父は、妻を失い、悲嘆に暮れます。家来に妻に似た女性を探させるが見つかりません。そこで妻に似た自分の娘ディンプナに結婚をせまりますが、ディンプナは拒絶し、聴罪司祭ゲレベルヌスを伴って逃走します。海を渡ってアントワープを経由して、内陸部に入り、ゲールにたどり着きますが、追っ手に発見され、ゲレベルヌスの処刑に続いて、娘は怒り狂う父親によって処刑されます。これは紀元600年頃のこととされ、殉教した2人は、聖人となりました。遺体はゲールの住民たちによって埋葬され、次第に彼らの墓が癒しを求めてやってくる人々の避難場所となっていきました。そのため彼らの遺物を掘り起こして、敬虔な信者たちの敬意に答えることになりました。ところが土を掘り起こしたところ、純白の石棺が二つ見つかり、それはその地域では見られないもので、人々はそれが天使のしわざと考えました。以上が伝説の骨子です。
聖ディンプナのイコノグラフィー
聖ディンプナ
 もっとも聖ディンプナ伝説で語られていることがどこまで本当で、どこからが作り話なのか、よくわかりません。いずれにしても怒り狂ったディンプナの父親は、悪魔にそそのかされて、ディンプナを殺害したと解釈されて、民衆の間では、狂気を克服したディンプナが精神病の守護聖人として崇められるようになったようです。さてここに聖ディンプナを表現した絵があります。この版画は1496年のもので、赤い丸で囲った部分に悪魔が顔を出しています。王女を象徴する冠をつけたディンプナが悪魔を踏みつけて、剣で頭を突き刺しています。さきほど紹介した13世紀の聖ディンプナの伝説には悪魔は登場していませんので、後の世の解釈で悪魔が付け加わったことになります。すなわち精神病と深いつながりがあると考えられた悪魔が登場した段階で、聖ディンプナが精神病の守護聖人へと特化していったことがわかります。

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