銅鐸と日本文化 
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銅鐸は青銅器

 さて銅鐸はまぎれもない青銅器であります。では、青銅器というのは何かといいますと、割合の順にいきますと、銅プラス錫の合金です。これらの2元素がないと青銅器とは言えません。それに加え鉛も重要で、この3元素(銅・錫・鉛)を必ずもっています。
 注意を必要とするのは作った時の銅鐸というのは青銅色ではなくてもっと黄金色をしています。真鍮(しんちゅう)の出来立てのような、あかがね色です。銅・錫・鉛をある割合で作りますと本当にあかがね色になります。成分の中の銅が錆びると我々が目にするような色になるのです。では銅鐸が錆びるということはどういうことかというと、銅分が空気といっしょになって外へ出ているのです。例えば、銅鐸を分析して銅80パーセント、錫10パーセント、鉛5パーセントとしても、青く錆びた分は銅が変化していますので、本来の銅の割合はもっと多いわけです。錫は外には変化して出ませんが、鉛は変化して外へ出ます。定量分析というのは、ぐるりの青錆のしみ出た土まで持ってきた時にはじめて元の銅や鉛の量が出るわけです。それが今の学問ではなかなかできないのです。錫はごくわずかはともかくとして、そのような錆にはなりませんが、鉛はものすごく錆びます。だからそういう補正がいりますけれども、だいたい、おおざっぱに言うと銅が80から90パーセントぐらいです。時々黒光りした銅鐸がありますけれども、あれは錫が多く含まれているのです。真っ青に錆びているような銅鐸は錫の含有量が少ないのです。鉛がだいたい3パーセントから5パーセントです。時々科学者の中で、銅鉱石を溶かしたらその中に幾分かの鉛が入りますという人がいますが、銅鉱石を溶かして自然に入る鉛というのは、1パーセント以内です。だから2パーセント、3パーセント、ましてや5パーセント入っている鉛は人工的に加えていると考えることができます。これは銅鐸を見る前の一種の基礎知識なのです。
 だから銅鐸は、あきらかに意識的に銅プラス錫プラス鉛、場合によっては更にもっといろいろな金属も若干混ぜている大変な技術の産物です。これは何も銅鐸だけではありません。鏡は模様を鮮明に出そうとか、実用の武器では折れなくしようとするために、混ぜる物をちょっと変えます。弥生人の金属の知識というのはすごいものです。今だったら分析することでわかりますけれども、分析のない時代ですから大変な技術です。
 それでは弥生時代にいったい銅や錫をどのようにして手に入れたのでしょう。太平洋戦争が終わって20年ほどの間は弥生時代の文化はあまり高いものではないという前提で研究がされていました。私の先輩学者、小林行雄さんは有名な大学者ですが、弥生時代の日本の技術力はたいしたことないというのが前提でした。だから小林先生は弥生時代の銅鐸、銅剣、銅矛の原料は全部大陸からスクラップとして持ってきたという説だったのです。今で言うとちり紙交換のように、もう大陸でいらなくなった銅剣とか銅矛とか鏡とかを持ってきました。ところが、神戸で14個の銅鐸が出た1964年頃、その銅鐸の分析を当時関西大学におられた亀井清教授がしました。この方はその当時としては銅の抜群の学者だったのです。その亀井先生がずっと調べました。そうすると小林理論のようにはならなかったのです。つまり中国や朝鮮半島から銅剣とか銅矛のスクラップ、いらなくなった物、折れた物を輸入してきて溶かした場合、小林先生がおっしゃるような割合にならなかったのです。溶かした場合に溶かした中に残る元素と、カス、カラミと言うのですが、カスに混ざって出てしまうものがあります。ところがカスになって出てしまうはずのものが銅鐸に残っていたりするのです。だから亀井先生の分析の時からスクラップ説というのは無理があると言われていました。
 大阪に三宝伸銅という会社があります。これは日本の大きな銅メーカーです。元の社長の久野雄一郎さんは、現在、銅についてのナンバーワンの学者です。ちょっと余談になりますが、日本では現業の物を作っている企業が強いのは社長や重役がその方面のトップクラスの学者であるということなのです。そのような現業の会社は世界でもびくともしなかった。今だに日立金属という会社は合金では世界において圧倒的な技術を誇っています。アメリカは宇宙ロケットを打ち上げていますが、宇宙ロケットに使っている合金は日立金属のものです。アメリカのものではないのです。ところが最近だんだんトップクラスの学者のような人が少なくなってきて、サラリーマン的な技師が増えてきましたので日本の技術力もこれから少し心配です。
 その三宝伸銅の社長の久野さんが15年ほど前ですけれども、電子顕微鏡で銅鐸を観察してくれました。すると自然銅の塊がぼこぼこ見えるのです。自然銅というのはヨーロッパでも青銅器の材料に使われています。竹の子やわらびのように地上にニョキニョキと銅がはえているのです。自然銅はだいたい銅の含有量99パーセントの純銅です。長い年月の間に余分なものが全部空気や雨で溶けて出てしまって、純粋の銅分だけがニョキニョキとたっています。現在の精錬技術では純銅に近い99パーセントの自然銅は、なかなか作れないのです。現在の技術にはまだまだ問題があるのです。余談ですが、秩父神社のご神体も自然銅です。自然銅というのは地表のを取りつくしてしまったら今度は地下にある銅鉱石を掘り出すのですが、青銅器時代でもすでに10メートルほど深く掘っています。ヨーロッパの場合、スイスのあたりで深く掘っています。日本でも自然銅というのはたくさんあったと思います。電子顕微鏡で表面をものすごい倍率で拡大したら、自然銅を使っていることがわかりました。自然銅プラス鉛とか錫を入れているのです。皆さんはなぜ錫なんだろうと不思議がるかもわかりませんが、佐賀県から錫の塊がすでに弥生遺跡から出ています。それから吉野ヶ里遺跡からも錫の塊が出ています。錫の塊が合金の材料になります。佐賀県唐津市柏崎遺跡では、鉛の矛も出ています。
 それから少し余談になりますが、大きな鉛の鉱山で今注目されているのが岐阜県飛騨神岡鉱山です。神岡鉱山はアジア最大の鉛鉱山で、世界でも有数の鉛の山です。しかも神岡の場合は、その他の金属といっしょに鉛がとれるのではなくてほとんど鉛専門の山なのです。そして、最近の研究では、化学分析の結果島根県の銅鐸の鉛は神岡のものだと言われています。神岡へ行かれた方はおわかりのように、神岡鉱山の横を流れる川は富山湾へ注ぐ宮川です。宮川は日本海水系です。今年8月に岐阜県の国府町で飛騨のシンポジウムをやります。その主要なテーマは、飛騨の国府町で長さ2百メートルの前方後円墳が見つかっているのですが、どうして飛騨というような山国にそういう大きな前方後円墳があるのかです。飛騨の山奥でなぜそんなに大きな富があったのかですが、どうもその一つが鉛です。だから現在、神岡の鉛は弥生時代から開発されていたことが可能性としてだいたい9割がた言えるのではないかと思っています。
 先ほど、徳島には銅鐸が多く発見されていると言いました。阿波の国には、銅山がいっぱいあるのです。吉野川の南岸では、徳島市に始まって阿波池田までどこの町にも銅山のあとがあります。今も動いている銅山もあるのです。それで私は30代の頃、阿波の国の銅鉱石利用説を出していましたが、少しだけ間違っていました。ただし日本国内産だけは当たりましたが、最初は自然銅利用だったのです。自然銅の利用は意外に後までやっています。何年か前にNHKで奈良で出た大野安麻呂の墓誌というのを放送していました。大野安麻呂いつ死んでとずっと字が書いてあるのですが、あの墓誌も自然銅を伸ばしていると言われています。だから銅山で鉱石を掘り出して溶かすのは、奈良時代ぐらいになってからではないかと思います。自然銅というのは日本ではわらびぐらいとか竹の子ぐらいの大きさだと言っていますが、アメリカのミシガン州の自然銅にはビルぐらいの大きな塊があるそうです。アメリカインディアンがだいぶん削っているのですが、それでもちょっと穴あけただけぐらいです。日本にそのような大きな自然銅はないと思います。竹の子ぐらいの自然銅があれば2、3個の中型の銅鐸は出来ます。銅鐸の中はがらんどうですから。

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